巌斐道人墓記碑(東京都新宿区須賀町・西応寺)

翻刻
文政三年庚辰夏五月十三日長崎画工広渡巌斐疾
卒于江戸客舎享年五十有五其門人曁隣里助其寡
婦孤女葬之于四谷西応寺之後山嗚呼哀哉身客於
数千里之外損靡*1依之孤寡而没此所謂生民之至艱
而荼毒之極哀者也其妻大橋氏募力於生卒旧識買
石立碑請記於詩仏老人大窪行因読其家乗七世之
祖浪仙一湖者明慶州広渡人也避乱帰化住我長崎
以画糊口以広渡為姓不審其本姓巌斐名湖秀受家
伎業画後遊京師与柏如亭交其来江戸因如亭見余
其人風流灑落善飲善談是以人亦喜交之云妻大橋
氏縫紉自給以養其弧可謂不減任子咸之婦者也
文政三年歳在庚辰秋九月常陸大窪行撰并書江戸
河三亥題額           広群鶴刻字

【年月】文政3年9月
【題額】市河米庵
【撰文】大窪詩仏
【筆者】大窪詩仏
【石工】広群鶴
【所在】西応寺(東京都新宿区須賀町)
【概要】
長崎生まれで京都・江戸で活動した画工・巌斐広渡湖秀の墓碑。この広渡湖秀には長崎で活動した同姓同名同号、ほかにも共通点がある者の別人と考えられるものがいるらしい。よくわからない。

広渡湖秀 (江戸) - Wikipedia

題額は市河米庵で、撰文と書丹は大窪詩仏(罫線が引かれているので石碑に直接書いたと思われる)。広群鶴が碑を彫り、文中には柏木如亭の名が出てくるという豪華な碑。書も彫りもよく、いい出来の名碑だと思う。ただ、文を読むと、あまり気持ちが入っていない感じ。詩仏は面識もあるようで褒めてはいるが、それほど深い付き合いはなかったのだろうか。

f:id:nonori915:20220314213907j:plainf:id:nonori915:20220314213910j:plainf:id:nonori915:20220314213912j:plain

*1:「麾」の誤写か

山陽「雲桂新居篇」、小竹「雲桂篇賀秋吉国手新居」

君不聞雲中有月々有桂。呉剛揮斧斫其枝。一枝堕地化為人。骨格輪囷又離奇。身材即是姮娥薬。駈人病邪生人肌。莫怪雲桂猶姓秋。秋来看月多帰思。満腔熱腸出天性。不肯拳曲低鬚眉。矮屋打頭久不耐。恰如桂梢物圧垂。買断大屋大且敞。美哉輪焉歌於斯。仰視蟾宮如蝸殼。聊且邀月咲挙巵。上簞下莞夢熊羆。桂之芽孽益繁滋。
承弼作雲桂歌。賀其新居。雲桂使余亦和之。昨夕酒間見催。酒醒失寐。枕上腹稿今朝急書塞責。不復精思也。時戊子八月十二日。桂輪未円也。而花則已開矣。

●輪囷(りんきん):くねくね曲がる様。●離奇:曲がりねじれている様。●身材即是姮娥薬。駈人病邪生人肌:よくわからない。●熱腸:熱い心。とくに人助けに意欲的なことを言う。●美哉輪焉:美しく高大なことよ。〈礼・檀弓下〉●上簞下莞:安眠。〈詩経・小雅・祈父〉。●熊羆:男子が生まれる兆し。●孽:妾腹。

秋吉雲桂の京都の新居を言祝ぐ詩。後出の小竹の詩が先にでき、雲桂が山陽にも依頼した。山陽と小竹の真蹟双幅が秋吉家に伝わり、現在は東京国立博物館に所蔵される(B-1390)。

秋吉質、号・錦水、字・雲桂。医者で山陽の弟子らしいが、詳しいことは分からなかった。

頼山陽全書 詩集』(頼山陽先生遺跡顕彰会、1932年、pp.624-625)を参照した。

雲桂仙根択所託。自山之幽移京洛。京洛多桂如錯薪。爨炊徒供玉食人。雲桂不与凡桂伍。気烈味辛蠲病苦。霊名誰争百薬長。仙籍近通広寒府。卜居月窟隔雲層。始悟雲桂以雲称。井橘林杏莫猜疑。此宅於君猶一枝。
雲桂篇賀秋吉国手新居

●蠲:病気を治す。●広寒府:月の世界にあるという宮殿。●井橘林杏:医者。●一枝:〔荘子、逍遥遊〕鷦鷯深林に巣(すくら)ふも、一枝に過ぎず。●国手:名医。

『小竹斎詩鈔』を参照した。

f:id:nonori915:20220308181118j:plain

大槻盤渓、顕微鏡で精子を見る

主吉雄南皐氏。南皐崎澳訳監某子。今就尾藩辟。以翻訳洋書為業。所著有観象図説。是夜借其所蔵顕微鏡。照小虫及布帛。𤼭則似蝦。蝨則似蟹。縐紗絹紬則漁網筠籠。其他不能一二記也。予嘗観精液奇状於様板解剖図中。欲得而照之。請之塾生。終点一滴視之。則無数蠃形。活潑蠢動。或走或躍。行住不定。如群蟻争聚。如蛣蟩浮游。至微至妙。殆不可状。予於是益信太西氏不我欺也。観了置酒微醺就寝。

『西遊紀程』(文政10年)3月4日条(抄)。西遊紀程. 巻上,下 / 大槻清崇 著から引用した。名古屋で吉雄南皐を主とし、顕微鏡を借りた記録。「𤼭」は不明。「蝨」はシラミ。「縐」は縮緬。「蠃」は巻貝か。「蛣蟩」はボウフラ。

この件、中村真一郎頼山陽とその時代』で知った(ちくま文庫版上巻p.123)。どうしても入れたかった挿話なのか、すこし話の流れに違和感があったりする。

松平春嶽「逸題」

権貴争登猿若坊、彩棚呼酒伴紅妝。吾生不喜区々技、坐見乾坤大劇場。

木下彪『明治詩話』(岩波文庫)に「昔は大名はもちろんのこと、士大夫は芝居など見向きもしなかった。それが明治に崩れ、貴人は争って妓女を携え猿若に走った。詩はこれを嘲笑して自ら王侯の気宇を表している」(p.93)と言う。

「棚」は小屋の意で、「彩棚」で芝居小屋のことだろう。芝居を「区々技」と腐している。「乾坤大劇場」は南宋・載復古「夏日雨後登楼」の「今古両虛器、乾坤百戯場」を踏まえるか。

早稲田の演劇博物館逍遥記念室に、「乾坤百戯場」と書かれた逍遥の書が掛けられていた。これは、グローブ座のモットー「Totus mundus agit histrionem」の漢訳という。もちろんその通りなのだろうけど、これもまた載復古の詩から取ったのではないかと思う。

市河寛斎「長源寺観楓」

山夾清渓水夾家、千林秋葉艶於花。斜陽閑倚闌干立、一道炊烟焼晩霞。

東京国立博物館が寛斎自筆の掛幅を所蔵している(B-3188)。展示されているときに添えられた釈文では2つの「夾」を「来」にしていたが、採らない。たとえば楊万里「過厳州章村放歌」に「両岸秋山夾秋水」とあるなど。字形上も意味上も「夾」でいいと思う。

結句の意味がよくわからない。晩霞を焼いているのは斜陽だと思うが。

題は東博の展示キャプションに載っていたもの。どこの長源寺なのかの説明はなかった。

f:id:nonori915:20211212025151j:plain

江馬細香「甲戌仲秋遊妙興寺、帰路失涼傘、戯有此作」

翠翠円陰不可離、当時聘得自京師。蓋遮高髻常相伴、柄託柔荑随所之。新霽秋山尋蕈日、微風春寺酔花時。一朝何棄吾儂去、畏景懐君如調飢。

文化11年秋8月、細香28歳の時の作。愛知県一宮市に現存する妙興寺で涼傘(日傘)を失くした時の詩。日傘を擬人化し、なぜ私を捨てて行ってしまったのと戯れる。

翠陰が青葉の陰なので、日傘の陰は「翠翠円陰」、それは離しがたい。京都から取り寄せたものだが、擬人化して礼を尽くして招くと言った。柔荑すなわちやわらかい女性の手(細香自身の手)が柄を取って、傘は頭を日差しから遮り、いつも携えていた。「之」は行く。「尋蕈」はキノコ狩りで、「新霽」雨があがって晴れ上がったころがいいのだろう。「酔花」は花見。いつも携えていたというのを春秋の具体例で示す。「棄」の主体は日傘で客体が「吾儂」わたし。「畏景」は左伝文公7年の「趙衰冬日之日也、趙盾夏日之日也」の項の杜預の注に「夏日可畏」とあり、夏の日差しとしたいところだが、ここでは仲秋の話なのでそのように強い日差し。「調飢」は朝の空腹感。それのように懐かしというのは少し座りが悪いような気もするが。

以上、福島 理子(注)『江戸漢詩選 女流』に依った。

f:id:nonori915:20211211024357j:plain
新日本古典籍総合データベース

頼山陽「赤関遇大含禅師師将東遊観富岳賦贈」

吾来泛火海、君往上富山、相逢赤関下、握手蹔破顔、雖無酒腸海不測、自有詩格山難攀、共把醒眼評山海、采真帰来重合歓、取吾火海火、融君富山雪、煎君雲華喫七椀、四腋生風凌列缺、与君下視大八洲、海如蹄涔山如垤。
禅師不解飲。其山産茶、名曰雲華。此回亦与余茗飲劇談。故云。

文政元年3月24日、西遊中の山陽は下関(赤関)にて、富士登山に向かう旧知の僧大含(雲華)と出会う。雲華は下戸なため、酒の代わりに彼の寺で産した茶(雲華と名付けられた)を飲みつつ、旧交を温めた。その時に送った詩。「無酒腸海不測」は下戸であることをいい、酒を飲んでないので酔眼ではなく「醒眼」と言う。

「喫七椀、四腋生風凌列缺」は唐・盧仝の「七碗茶歌」の「七碗吃不得也、唯覚両腋習習清風生。」に基づき、山陽雲華2人のため「四腋」とした。空を飛んで「列缺(稲妻)」を凌ぐ。

山陽が行くとしてる「火海」は肥(火)の国である肥後の海。その火で富士山の雪を溶かしてしまおうという、地名を使った戯れ。また空を飛んで地上を見下ろせば、海は「蹄涔」つまり蹄でできた凹みに水がたまった程度の小さな水たまり、山は「垤(蟻塚)」のように小さく見えるね。

伸びやかで明るく空想的な詩で読んでいて心地いい。

谷口匡『西遊詩巻:頼山陽の九州漫遊』(法蔵館、2020年)で知ったものであり、以上参考にした。上に挙げたのは「西遊詩巻」版で、のちに『詩鈔』『詩集』にも採られるが小異あり。

また谷口は「采真」について「自然に任せて作為を弄さない境地。『荘子』天運篇に見える言葉。」と注しているが、よくわからない。山陽の叔父杏坪の息子(つまり山陽の従弟)采真ではなかろうか。人名であれば帰ってきたので重ねて合歓すると意味が通る。采真がこのとき下関にいたかはよくわからないけれど。