中国古典名品展|天理ギャラリー(2022.5.15~6.12)

天理図書館所蔵品の中国古典の名品展。日本と中国の写本と刊本が展示されていた。

まずは日本の写本。南海寄帰内法伝(1)は奈良時代後期の写経所で書かれたと思しい肉太の力強い写経。般若波羅蜜多心経注(2)は孤本で、道光7年(1827)敦煌の塔中で得た旨の別紙識語がある由。1900年の敦煌文書発見より以前のもの。 [三蔵法師玄奘取経像](3)は絵画で、大谷探検隊将来品とのこと。「宝勝如来仏」と書かれており、除災招福の仏で、西域を往来する僧が護符代わりに持ったのではとのこと。趙志集(5)は行末の空白部分に点を打つ古来の書法が見られるという。

続いて、日本の刊本。大般若波羅蜜多経 巻第二百七十七 西大寺版(8)は叡尊西大寺で出版したもの。多くの社寺に経典を奉納し異国退散の祈祷を行ったという。見返しに獅子に乗る文殊菩薩。集千家註批点杜工部詩集 五山版(9)は覆刻版でもとの元版(9付)と並べて展示。元版は字が細くて読みづらく、五山版の方がよく見えてしまった。論語集解 大内版(周防)(11)は伊藤仁斎古義堂旧蔵とのこと。「享保十六年辛亥八月伊藤長胤蔵書」。新編名方類証医書大全 阿佐井野版(堺)(12)は日本で出版された最初の医書。五山版では実用書が軽視されたらしい。

次に、中国の刊本。劉夢得文集 宋版(16)は栄西将来という伝承があり、巻30巻末印記「天山」は義満の印記と言われているとのこと。この部分を開いてはいなかった。御製逍遥詠 宋版(17)は北宋太宗御製で毘盧大蔵経の1つとのこと。御製が大蔵経に入るというのがよくわからなかった。捜神秘覧 宋版(21)は、臨安屈指の名書店・尹家書籍舗が出版したという。こんな昔の書店の名が知られるというのは凄い。東福寺普門院伝来で、開山の円爾将来とのこと。尚書注疏 巻第十八, 二十 金版(24)、希少という金版。

最後に、挿絵にコーナーだが、一部写本が交じる。なかで驚いたのが程氏墨苑 明版(33)。「セビリアの聖母」のページが開かれており、木版とは信じがたい細かい描画だった。「原画は、イエスズ会の宣教師が将来したスペイン・セビリア大聖堂の壁画を模した銅版画を元に、島原のセミナリオで作成された銅版画。中国版画における西洋技術導入の先駆けとなる」とのこと。また万寿盛典 初集 康煕殿版(36)もすごかった。全148葉で展開すれば50mにもなる連続する盛典図。富岡鉄斎旧蔵品

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1 南海寄帰内法伝  奈良時代末期(8世紀)写 国宝
2 般若波羅蜜多心経注 敦煌出土経  唐時代後期(9世紀)写
3 [三蔵法師玄奘取経像] 敦煌画  唐時代末期~北宋時代初期(9-10世紀)写
4 五臣注文選 巻第二十  平安時代中期(9-10世紀)写 重要文化財
5 趙志集  平安時代中期(9-10世紀)写 重要文化財
6 白氏文集 巻三十三 金沢文庫本  鎌倉時代 寛喜3(1231)写 重要文化財 ※
7 古文孝経 観智院本 室町時代前期(14-15世紀)写 重要文化財
8 大般若波羅蜜多経 巻第二百七十七 西大寺鎌倉時代中期(13世紀)刊
9 集千家註批点杜工部詩集 五山版  南北朝時代(14世紀)刊
9付 集千家註批点杜工部詩集 元版  元時代[至大元(1308)]刊
10 重編詳備碎金 五山版 南北朝時代(14世紀)刊
11 論語集解 大内版(周防)  室町時代 明応8(1499)刊
12 新編名方類証医書大全 阿佐井野版(堺)  室町時代 大永8(1528)刊
13 群書治要 駿河版  江戸時代 元和2(1616)刊
14 四書五経 付題簽 松平定信筆  江戸時代 文化2(1805)写
15 白氏六帖事類集 宋版  南宋時代 紹興年間(1131-62)刊 重要文化財 ※
16 劉夢得文集 宋版  南宋時代 紹興年間(1131-62)刊 国宝
17 御製逍遥詠 宋版 開元寺版  南宋時代 紹興年間(1131-62)刊
18 通典 宋版  南宋時代初期(12世紀)刊 重要文化財 ※
19 後漢書 宋版  南宋時代 慶元4(1198)刊 重要文化財
20 欧陽文忠公集 宋版  南宋時代 嘉泰-開禧頃(1201-07)刊 国宝 ※
21 捜神秘覧 宋版  南宋時代 光宗・寧宗朝期(1189-1224)刊 重要文化財
22 新編醉翁談録 宋版  南宋時代末期(13世紀)刊 重要文化財
23 毛詩要義 宋版  南宋時代 淳祐12(1252)刊 重要文化財 ※
24 尚書注疏 巻第十八, 二十 金版  金時代(12-13世紀)刊 重要美術品
25 史記 元版  元時代 至元25(1288)刊
26 長春大宗師玄風慶会図説文 巻第一 元版  元時代 大徳9(1305)刊
27 分類補註李太白詩 元版  元時代 至大3(1310)刊 ※
28 永楽大典 明内府鈔本  明時代 嘉靖41~隆慶元(1562-67)写 重要美術品
29 太平広記 明木活字版  明時代 降慶年間(1567-72)刊 ※
30 新刻出像官板大字西遊記 明版  明時代 万暦年間(1573-1620)刊
31 李卓吾先生批評忠義水滸伝 明版  明時代 万暦年間(1573-1620)刊
32 李卓吾先生批評三国志 明版 明時代後期(16-17世紀)刊
33 程氏墨苑 明版  明時代 万暦年間(1573-1620)刊
34 王陽明講学答問  明時代後期(16-17世紀)写 ※
35 新校注古本西廂記 明版  明時代 万暦42(1614)刊
36 万寿盛典 初集 康煕殿版  清時代 康煕56(1717)刊
37 農書 武英殿聚珍版  清時代 乾隆39(1774)刊 ※
38 大清高宗純皇帝実録 清内府鈔本  清時代嘉慶年間(1796-1820)写
39 芥子園画伝 清版  清時代後期(19世紀)刊 ※
40 乾隆銅版画(準回両部平定得勝図)  清時代 乾隆年間(1736-95)印
40付 [準回両部平定得勝図草稿]   清時代 乾隆年間(1736-95)写

※・・・ 天理図書館開館92周年記念展(2022年10-11月 於天理参考館)のみ出品

大阪旅行3泊4日

そろそろどこかに旅行に行こうかなと考えていたところ、大阪市立美術館がリニューアルのための長期休館前に大規模なコレクション展をしているとのことで大阪にした。残念ながらそのコレクション展はそれほど自分には刺さらなかったし、それ以外の美術館も好みの展覧会ではなかったり休館中だったりで、展覧会という観点から言うとあまりいい時期ではなかったようだけど、古墳や寺社などの名所はよく、楽しい一人旅だった。

要約

  • 古墳の植樹は日清戦争の賠償金?
  • 大山古墳前方部の石棺
  • 四天王寺法隆寺の伽藍配置
  • 大阪の広群鶴と家隆墓
  • 軽里大塚古墳の拝所にせまる新しめの家々
  • 頼信と義家の墓の寂しげな感じ
  • 道明寺天満宮にあった名碑
  • 渦巻状に描かれた螺鈿の四条風俗図
  • 三津寺の上にビル
  • 昭和32年の車両

1日目

3日目と4日目の天気が怪しいとのことで、百舌鳥と古市の古墳巡りは1日目と2日目にすることに。そこで早起きして新横浜駅始発ひかり533号に乗車。後発の東京駅始発ののぞみに抜かれないように速く走るひかりとして鉄オタには有名らしく、なにかの機会に知ったもの。これがあれかと少し感慨を覚える。8:12新大阪着。ホテルは東横イン東梅田で大阪メトロ谷町線堺筋線南森町駅が最寄駅。大阪メトロ御堂筋線で梅田駅、東梅田駅まで歩いて谷町線に乗車して1駅の南森町駅に到着。ホテルに荷物を預けて、駅に戻り大阪メトロ堺筋線天下茶屋駅へ、南海高野線に乗換えて堺東駅に到着。堺市役所の21階展望ロビーへ。大山古墳の形を見るにはこの高さでも足りないようだ。観光案内所で地図を手に入れて田出井山古墳、方違神社を経て大山古墳へ。三国ヶ丘駅のみくにん広場にも寄って、拝所へ向かう。周濠に白鷺や青鷺の姿を見つつ、外側の濠に土橋があり、そこにわずかに古そうな石の柵が残っていた。かつての柵なのだろうか。拝所へ。絶好の天気に新緑も相まって最高の景色だった。そこにはボランティアの人がいて、少し話をした。古墳の森は日清戦争の賠償金を使って植樹したものだなんて興味深いことを言う。あとでざっくり検索したところ、そんな話は出て来ないけど念のため記しておく。植樹してはいそうだし、時期的にもそこまでおかしくはないような気もする。また大山古墳は常緑樹でこの時期がよく、上石津ミサンザイ古墳は落葉樹で晩秋がいいと。あえて変化をつけて植樹したのかもしれない。堺市博物館に行くと、大山古墳の前方部から発見されたという石室・石棺図(原本は八王子市郷土資料館蔵)およびそれをもとにした模型が。この図は國學院大學博物館の「好古家たち」展で見たものだ、柏木貨一郎のだとちょっと興奮。ほかに慶長大火縄銃(現存日本最長)や隋の観音菩薩立像(白檀の一材製、目や唇に彩色、重文)あたりに目が行く。その後、上石津ミサンザイ古墳へ。周濠が1重ながら広くてなかなかいい雰囲気。とはいえ古墳はもういいかなということで、JR阪和線で上野芝駅から天王寺駅へ行き四天王寺へ。西の石鳥居から入って西大門をくぐり金堂と五重塔を目にすると、伽藍配置が法隆寺と同じじゃないかとびっくり(左右は逆だけど)。伽藍配置の変遷図を見てるだけだと気づかなかったけど、両者はそれほど違いがないのだなと感じた。建物自体は新しいものなのでとくに感慨もなく。六時堂は江戸時代のもので流石に魅力的だった。宝物館では白隠などを展示していたが、松陰寺と永青文庫の所蔵品の複製。よく確認しなかった自分も悪いとはいえ、こんなのに金をとるのかと。石鳥居の扁額など数少ない常設展示はいいものだったけど。四天王寺を出て、最古の企業金剛組の前をとおりつつ北上、家隆塚の手前によさげな石碑を発見した。もしかして広群鶴?なんて冗談交じりに思いつつよく見ると、まさかの大当たり。大阪にも広群鶴の刻碑があったのか。しかも2基も。右は日岡阡表。幕末の紀州藩士・国学者の伊達千広(宗広)の阡表で、子の陸奥宗光撰、日下部鳴鶴書。左は原敬による陸奥宗光追慕碑。七言絶句に建碑の理由を添える。家隆塚の側には享保年間の古碑従二位家隆卿墓碣銘幷序。かなり破損しているがなかなか趣がある。その後北上しつついくつか寄ったが、疲労困憊であまりよく見ず。写真を確認すると、浄春寺の田能村竹田墓を見ていないようだけど、理由を思い出せず。生國魂神社もさらりと流してしまい、西鶴像を見忘れてしまった。その西鶴などがある誓願寺へ。門前に石碑があり西鶴や中井甃庵・竹山・履軒の墓がある旨が記されていたが、「井原西鶴先生墓」の上は削られているのだろうか?墓地に伺って、何度も写真などで見た西鶴墓にお参り。散らばっている中井家3人の墓にも。どこかで見たことがあるようなタイプのお墓。当時の形式のひとつなのだろうか。近松門左衛門の墓にも行った後、契沖の旧庵で墓もあるという円珠庵へ。残念ながら契沖の墓は非公開らしく、またどうもスピリチュアル方面に傾斜しているようで、見学者はあまり歓迎されないようだ。真田丸跡を抜けて三光神社真田の抜穴跡を見学、大阪メトロの玉造駅から南森町駅へ、ホテルに戻る前に大阪天満宮に寄る。道真の生涯を人形で表した菅家廊下というのが非常にいい出来で驚いた。つづいて成正寺で大塩平八郎の墓を参拝したが、ずいぶんと新しいものに見えた。どういう由緒があるのだろう。ホテルに行ってチェックイン。喫煙可のお部屋3泊ですねと確認されてびっくり。間違えたのかわからんが仕方ないのでそのまま受け入れて部屋へ。幸いにも部屋は臭わず。ただ3日目に少し暑かったので冷房を入れると、臭い冷気が出てきたので、やはり禁煙の部屋にしないと。なお、大阪のタバコの状況は東京に比べるとかなりひどいと思った。歩きタバコや吸殻ポイ捨ては庶民的なミナミだけでなく、キタでもかなり見かけた。このとき17時ころ。ホテルでぐったりしたあと、梅田駅の方へぶらぶら。お初天神を見て、551蓬莱梅田阪神店で夕食。ホテルに戻って眠りについた。

2日目

この日は古市古墳周辺を巡る日。とりあえず葛井寺に行こうと谷町線天王寺駅へ。大阪阿倍野橋駅から近鉄南大阪線に乗車するも乗り間違えて古市駅まで行ってしまう。仕方ないのでまずは軽里大塚古墳へ。拝所周辺にわりと新しそうな家がびっしり建っており、ちょっと不思議な感じ。雰囲気が壊れているようにも思えるが、仕方のないところか。白鳥神社に寄ったあと、古市駅に戻って近鉄南大阪線上ノ太子駅へ。ふと逆側の出口に出てしまうというアクシデントが有りつつ、叡福寺へ。廐戸皇子の墓の可能性が高いという叡福寺北古墳を見てると、小学生の一群が先生に引率されて古墳前に並び、みんなで般若心経らしきものを唱えだした。某宗教系の小学校で、こういう形でも宗教教育を行っているようだ。古墳の脇にある太子廟窟偈碑もいい碑だった。側面には龍が彫られている。江戸時代辺りだろうか。下部は欠損しており、亀趺は後補か。首や足を引っ込めた状態なのはなにか理由があるのだろうか。いまざっくり画像検索した限りでは出している方が普通のようだ。叡福寺を出たあと伝馬子墓、もどって西方院、そして源氏三代の墓へ。標識にしたがって頼信と義家の墓に向かうとなんとも怪しげな雰囲気。というよりほとんど無くなりかけているような道を通ってたどり着いた2人の墓はなんとも寂しげな感じだった。とくに八幡太郎がこんな扱いなのは意外に思う。江戸時代、徳川家にとっては重要な人物だったと思うのだが。通法寺跡と頼義の墓に参拝したあと、壺井八幡宮へ。上ノ太子駅へ戻り、再び古市駅に降りる。誉田八幡宮に行くと立派なフジが。白藤らしいけど、検索してもこのフジのこと花のことがあまりでてこないのはなぜだろう。誉田山古墳の拝所は今まで見た中でもっとも雰囲気のあるものだった。大山古墳は車通りの多い道に面しているし、ボランティア含め人も多い。上石津ミサンザイ古墳も道沿い。軽里大塚古墳は先述のように家が密集している。しかし、この誉田山古墳は道路から離れて奥まっており、周囲に何もなく静かな場所だった。道明寺はちょうど月に2回の御開帳の日。山門の陰のベンチで本を読んでいるじいさんがなかなかいい。旅行中、外で紙の本を読んでいる人を何人か見かけた。つづいて道明寺天満宮へ。注連柱がかっこいい。明治45年藤沢南岳撰書。しかしそれより素晴らしいのが八島君之廟窟碑。もとの墓石が朽ちたので元文5年に再建したものだとのこと。八島君之廟窟碑建碑由来碑が側に建っているがこれもまたいい。ちょっと場所が荒れているというか草ぼうぼう。もうしこし整備してほしいなあと思った。ただ公式サイトに石造物のページがあって、翻刻や解説が充実。すばらしい神社だ。道明寺駅から近鉄南大阪線で大阪阿倍野橋駅へ。大阪市立美術館に向かう。天王寺公園の中を進み、旧黒田藩蔵屋敷長屋門をくぐると美術館のサイドへでた。なんで西側を向いているのだろう?建設当時は通天閣の方が正面であるべきだということだろうか。美術館はアプローチがわりと重要だと思う。交通の便から行くと天王寺からのアプローチが多いと思うので、すこし残念なことになっているような。大阪市立美術館で開催中の華風到来はコレクション展で中国美術とその影響をうけた日本美術を主題とするもの。併設展示として大阪市立美術館の歩みとコレクション。キャプションに一言コメント、そして解説ともにクセがあるというか笑いを入れようとするところ、大阪の流儀なのか。正直ちょっと抵抗があった。また展示もあまり好みの作品は多くなく。気になったのをいくつか挙げる。伏生授経図は作者が伝 王維だという。青銅 呉王伍子胥図画像鏡の自刎している場面。青銅 雷文鍑と青銅銀錯 雲気文鏊は生き物のようで、また愛らしい。沈府君神道闕拓本は以前早稲田大学會津八一記念博物館で見ていいなあと思ったもの。相変わらずいい。石造 四面像(109)の側面の化け物。青磁象嵌 葡萄唐子文瓢形水注はどういう技法なのだろう。そして唐子がかわいい。こんな絵も描くのかと思った橋本関雪の讃光。人物鳥獣模様綴織覆布は8世紀コプト(エジプト)のものだという。布が残っているというのは凄いな。正倉院法隆寺などでの伝来品ならともかく出土品で残るのは乾燥した気候だからか。青銅 鴟鴞形水滴がまたかわいい。美術館を出て通天閣へ。キッチュなところがすこぶる大阪だなあと。恵美須町駅から大阪メトロ堺筋線南森町駅、ホテルに戻る。

3日目

ホテルを出て南森町駅から大阪メトロ谷町線谷町四丁目駅へ。大阪城天守閣へと向かう。ぐるりと回って玉造口から楼門を通ってオープンの9:30ころ到着。あまり解説を読む気分でもなく、展示物も惹かれるのは少なかったが、四条風俗図螺鈿大盤というのが素晴らしかった。中央に祇園社、周囲にぐるりと渦を巻くように四条通りの賑わいが螺鈿で描かれる。下に車輪があって回るという。天守閣を出て極楽橋を渡り京橋口から京橋を渡って藤田美術館へ。無駄を削ぎ落としたこだわりの美術館らしく、わりと受けがいいようだが、個人的にはあまり好みではなかった。とりあえず受付台くらいは置いておいたほうがいいと思う。一方、列形成のためのベルトパーテーションは使ってたりする。あれは完全に浮いているので取っ払ったほうがいいのでは。初訪問の人にはもろもろ分かりにくいのでスタッフへの依存が大きそうな施設だと思った。展示室は見やすくていいけど。去夏帖を手に入れていたのか。寸松庵色紙に墨映りあり。曽根崎通り銀橋を渡って泉布観と旧桜宮公会堂。造幣博物館はサラッと流して、南森町駅から谷町線東梅田駅、梅田駅まで歩いて大阪メトロ御堂筋線なんば駅へ。551蓬莱本店で食事後、法善寺、法善寺横丁、道頓堀商店街、戎橋を渡って三津寺に行ってみたら工事中。ビルを建てるらしい。本堂貴重じゃなかったっけ?とおもったら本堂残して上に被さるように建てるとのこと。安心したけど、なかなか強引だ。大丸心斎橋店は建て替え前に一度行ってみたかったなあ。もちろん今でもすてきだけど。北上して湯木美術館。「金工の茶道具と釜の魅力」という渋好みの展覧会。古銅桔梗口花入とかいくつか惹かれたのもあったけど、楽しむのは難しいものだった。淀屋橋を渡って日本銀行大阪支店、大阪中之島図書館大阪市中央公会堂をながめて北浜駅から大阪メトロ堺筋線で動物園前駅まで、そして今池駅から阪堺電気軌道阪堺線に乗車。ずいぶん古い車両だなあと確認すると、帝国車両昭和32年。65年前だ。すごいな。なお車内アナウンスが人口音声という対比がまたいい。調べてみるともっと古いのもあるようだ。住吉鳥居前駅についたのは16時ころ。住吉大社は4つある本殿の配置がおもしろく、実物を前にすると不思議だなあと。楠珺社と卯の花苑が16時までで入れなかったのが残念。帰りは別ルートを取ろうと、南海本線住吉大社駅から天下茶屋駅へ大阪メトロ堺筋線に乗車して南森町駅、ホテルへ。

4日目
最終日。ホテルをチェックアウト後、南森町駅へ行き、大阪メトロ谷町線谷町四丁目駅を出て、難波宮から越中井を経て大阪カテドラル聖マリア大聖堂へ。設計は長谷部鋭吉で、1963年落成。とてもすてきな建物だった。玉造稲荷神社では阪神淡路大震災で倒壊したという秀頼寄進の鳥居を見学。太子が戦勝を祈った神社だという。そのあと大阪歴史博物館へ。10階の古代は力が入っておりとてもおもしろく見学した。複製品とはいえ日本最古の万葉仮名木簡が見れたのはうれしい。それ以外の階はずいぶんと薄味に感じた。展示スペースがそれほどないのに巨大模型を作り、実物展示や解説が不十分、時代もどんどん飛ばされていって、なんだかなあという施設だった。最後に万博記念公園を目指し谷町四丁目駅から大阪メトロ谷町線で大日駅、大阪モノレール線に乗り換えて万博記念公園駅へ。太陽の塔を見つつ、国立民族学博物館に至る。とてもおもしろい施設であることは間違いないんだけど、ボリュームが多すぎでざっと見ていくに留めた。万博記念公園駅にもどり大阪モノレール線千里中央駅へ、北大阪急行電鉄に乗り換えてそのまま御堂筋線に入り、新大阪駅着。

五島美術館の古筆 その1

東京都世田谷区にある五島美術館は、茶道具や書跡のコレクションが充実した美術館で、併設の大東急記念文庫にも貴重な典籍が収蔵されている。収蔵品にはさまざまなジャンルがあるが、その中でも特筆すべきは古筆のコレクションではなかろうか。日本には(少ないながら世界にも)古筆を所蔵している個人や機関は多いが、五島美術館のものは屈指と言っていいだろう。しかし、そのコレクションの全貌を紹介するようなものがないのは残念なことだ。もちろん、五島美術館でも所蔵品図録や展覧会図録などを出しており、また公式サイトにコレクション・ページもあって、その中で取り上げられている作品もある。だが、それは極一部に過ぎず、まったくもって不十分だと言っていい。そのため、美術館には主だった古筆作品を紹介する書籍を刊行してほしいと願っているが、なかなか難しそうだ。ならば、自分でやってしまおうと思った次第。私は美術館とは関係がないし、また画像の使用許可を取るような手間をかけるつもりもなく、かといって無断使用するつもりもない。結果として画像は一切なく、分かりにくい記事になっているのは心苦しいが、ご寛恕いただきたい。今回はその第1回として、高野切、継色紙、寸松庵色紙、升色紙、石山切と岡寺切、小倉色紙を取り上げる。

高野切第1種と第2種

古筆を代表する作品のひとつの高野切。古今集の古写本で、11世紀半ばの書写と考えられている。現存品には3つの筆跡が認められ、それぞれ第1種・第2種・第3種と呼び分けられている。五島美術館が所蔵するのは第1種と第2種が1幅づつで、第3種を欠く。しかし、3種全て揃うというのは珍しく、たとえばあの東博ですら第1種がなかったりすることを考えれば、2種あるだけでも十分素晴らしいと言っていいだろう。しかも、それらがそれぞれにいいものだというところに、さすが五島美術館といった感じがする。

第1種は巻1の巻頭の断簡。第1種には巻20の完本*1があり、また高野切の名称の由来に関わるといわれる巻9の巻頭断簡*2も著名だ。そして、それに続いて重要なのがこの五島断簡だろう。丁寧に書写されており、ここからこの本を書き始めるのだという緊張感をひしひしと感じる。巻1の後ろの方の断簡、たとえば出光美術館やアーティゾン美術館所蔵品になると、緊張もとれたのか力の抜けた軽やかさがでている。どちらがいいかは好みの問題だと思うが、本断簡が貴重な遺品であることは間違いない。

なお、高野切は序について議論がある。そもそも序が有ったのか、あったとすれば仮名序なのか真名序なのか、両序具備するのか。序にあたる断簡は1行たりとも残っていないこと、古今集には序のない伝本も存在する*3こともあって特定は難しいが、私はおそらくなかったのではないかと考えている。序があればその筆者は第1種の人が担当しそうで、まず序から書き始めそうなものだ。しかし、この第1種の筆者は、巻1巻頭から書き始めているように思える。かなり粗雑な意見であることは承知の上。ただ、思いついたことなので、いちおうここに書き記して置く。

第2種の五島断簡の特徴は大きいところ。5首17行。書跡の鑑賞は点・線・面でみるという。1字1字の点と、各行の線、そしてある程度のまとまりをもった面。この面の鑑賞には、2行3行などの小さく切断された断簡では適さないが、第2種のは手鑑に押されたのを中心にそういう短い断簡が多い。そのなかにあって珍しい大断簡であり、見応えがある。もちろん2巻残る完本、巻5*4や巻8*5には及ばないとはいえ。

継色紙

五島美術館には三色紙が揃い踏みしていて、それ自体珍しいことであるが、またそれぞれに特徴がある。

まずは継色紙。もとは粘葉装冊子本で、未詳歌集の写本。おおむね和歌1首を2頁に散らし書きする。書写年代には諸説あり、はやくて10世紀中頃、遅くて12世紀とさまざま。10世紀末から11世紀はじめ頃と考えるのが穏当か。

さて、冊子本で和歌を1首2頁に散らし書きにすると書いたが、見開き2頁に書かかれたものを想像したのではないかと思う。実際、継色紙の遺品でもそう書かれたものもある。しかし、それに限ったわけではない。たとえば、左頁に上句を、ページをめくって右頁に下句を書くというのもあるのだ。厳密に言うと、継色紙は内面書写で、糊継ぎしている料紙裏側には書かないので、めくると白紙の見開きがあり、更にめくった右頁に下句が書かれる。このページをまたいだ書き方に特定の名称があるのかは不案内だが、「渡り書き」と呼ばれているのを目にしたことがあるので、ひとまずここではそう呼びたいと思う。五島断簡(掛幅装)は渡り書きされたものの1つで、向って右の断簡はもと左頁、左の断簡は右頁だったものだ。すこし上下にずらして掛幅に仕立てている。もともと見開きでこんなことをしてたら筆者への冒瀆に他ならないが、そうではないので一手間加えているのだ。

ちなみに、継色紙には他にも、1頁に1首を書いたところもあれば、見開きに1首書くが、左頁に上句を書き右頁に下句を書くという返し書きをするものもある。

閑話休題。不思議なのは、なぜ渡り書きという奇妙に思える書き方をしているのかという点。どういう意図があるのか。もしくは、意図がないならば、なぜこのような書き方に抵抗がないのか、可能なのか。おそらく現代人が和歌1首を2頁に書いてくれと言われれば、よほどひねくれてない限り渡り書きをしないだろう。ページや冊子に対する考え方が異なるのではないかと想像させる。

この違和感を覚える書き方は、巻子本に書写する感覚に由来するのではないかと考えてみたが、どうだろうか。巻子本では紙の継目に関係なく連続して書写するのが普通だ。継目があるからといって、そこを区切りとして意識して意味上のまとまりをつけなければならないということはない。そして継ぎ紙を巻子本に仕立てずに蛇腹状に折り畳めば折本という一種の冊子本ができる。さらに言えば、継目で山折り料紙中央で谷折りして折本を作り、そこから継目を剥がして逆側を糊で綴じれば、粘葉装の出来上がり。しかも、巻子本は表側のみにしか書かれないので、継色紙と同じ内面書写となる。これはもちろん粘葉装内面書写の実際の作成のされかたを示したものではなく、思いの外両者は近いものであるということを示したかった。巻子本の料紙の継目をまたいで書くような感覚で、粘葉装のページをまたいで書いたんじゃないかと考えるわけだ。そこで重要な手がかりとなるのが、かつて「伝行成筆古今集切」と呼ばれていたもので、池田和臣さんによって「未詳ちらし歌切」と新たに命名されている遺品。もとさまざまな色の料紙を継いだ巻子本で、現在はわずかに6葉が残るのみだが、そのうち3葉が色変わりの継目をまたいで和歌が書写されているのである。

この「未詳ちらし歌切」は、うち1葉が炭素14年代測定にかけられ、西暦1000年前後の数字がでたという注目すべきものである*6。もちろん、測定の結果は無条件に信じるべきものだというわけでもないし、また料紙の年代と書写年代が離れる可能性もある。とはいえ、以前から書写年代は高野切以前の可能性もあるのではないかと推定もなされていたことを考えると、無視できるものではない。そして、この切の料紙や筆跡について近いものとして挙げられるのが、関戸本古今集と継色紙。「未詳ちらし歌切」との関連を考える上でも、そして継色紙の書写年代を考える上でも、渡り書きの五島断簡は貴重であると思う。

なお、継色紙にはある程度時代が下ると思わせる要素があることも合わせて書いておきたい。たとえば返し書きのものはページに対する意識の強さを思わせる。また、現存品は上句下句を分けているが、これも比較的新しい感覚のように見える。鎌倉時代以後は和歌を2行書きするとき上句1行下句1行にすることがほとんどであり、それは現代にも続くが、実は平安古筆はそういうのをあまり気にしない。12世紀半ばころから意識されるようになってくるようで、厳密なのは藤原教長あたりがその先駆け。とすると、継色紙も上句と下句を分ける意識から書写年代も下げた方がいいのだろうか。しかし、行書きとちらし書きには差があるのかもしれないと今は考えておく。つまり、和歌の行書きの変化は行に対する意識の変化故だと。

寸松庵色紙

もとは粘葉装冊子本で、古今集の四季歌(詞書を除く)を書写したと考えられるもの。料紙は宋製の舶載唐紙で、和歌1首を1頁に散らし書きする。

唐紙は胡粉地に文様を雲母刷りしたもので、初めは中国から輸入していたが、のちに日本でも作られた。日本で作られた和製唐紙の特徴の1つは文様を両面刷りするものがあること。片面のみのもあるが、両面刷っていれば和製唐紙。つまり、舶載唐紙は片面刷りしかないということだ。寸松庵色紙の現存品にはすべて雲母刷り文様がある*7。つまり、表側にのみ書写している。粘葉装で表側しか使わないとなれば、継色紙とおなじで内面書写ということになるだろう。注記にリンクを貼った論文では内面書写だと明言されているが、ほかの解説であまり見かけないので、念のため書いておく。

舶載唐紙には、傷みやすいという特徴もある。胡粉がはがれ落ちやすく、その上に乗る雲母や墨ごと失われてしまうため、状態のよくないものが多い。寸松庵色紙も例に漏れず、雲母刷りの文様が判然としなかったり、文字も読みづらくなっていたり、さらには補筆をしているものまである。そのなかで五島断簡(掛幅装)は状態のよさが目を引く。雲母刷りの西瓜文様ははっきりしているし、文字も読みやすい。

更に言うと、五島美術館は展示の仕方がいいのだ。いい状態のものでも壁にかけては文様は見ることはできないだろうし、文字を読むのも難しい。しかし、ここでは掛幅をのぞきケースに寝かせて展示するという手法をとることがある。はじめてこの展示法で寸松庵色紙を見たときの印象は忘れがたい。輝かしい西瓜文様に目のくらむ思いがしたのだった。雲母刷りの本来の力を引き出す展示法は素晴らしいし、またそれに応えるだけの状態を保持した断簡でもあるのだ。

掛幅を寝かして展示するのは邪道だという意見もあるかもしれない。しかし、寸松庵色紙をふくめ古筆はもともと本なのである。壁にかけて本を読む人はいない。手に持ったり、机の上において読むものだ。その角度や距離で見たときに、筆跡も料紙装飾ももっとも美しいはず。つまり、掛幅装の古筆をのぞきケースに寝かせて展示するのは邪道どころか、もっとも正しい展示手法だと言ってもいいのではないかと思う。

さらによく見ると、布目のようなものがあることに気づくと思う。これは布目打ちという技法による装飾で、紙を漉いて乾かす前に布を押し付けて布目を写し取る技法らしい。それによって見た目に布っぽい感じがでている。書の支持体で代表的なのは紙と絹布。おそらく絹布のほうが格が上という意識があったのではないか。そのため紙を絹布に似せる布目打ちが行われた。雲母刷りも同様で、これは綾織を意識しているのではないかと思う。布目打ちが用いられるのは唐紙が多いような気がするが、それは唐紙が綾織で文様を織りだした絹布を目指しているからなのだろう。

升色紙

深養父集の断簡でもと冊子本。現存品はすべて切断され1頁ごとになっている。もともとの冊子本の綴じ方がはっきりしないが、綴葉装(列帖装)だろうか。1首を1頁に散らし書きにするのが通例。

五島断簡(掛幅装)の料紙は藍の漉き染め紙に雲母砂子を撒いたもの。雲母刷り同様、壁面ケースに掛けての展示だと雲母砂子は見づらいので、ここでものぞきケースでの展示が威力を発揮する(高野切もおなじく)。一部雲母砂子が見て取れない箇所があったような気がするが、破損して補筆したというようなことがあったのかもしれない。所詮はガラス越しに見ているのだけなので、確信は持てないけれども。

漉き染めとは、紙を漉くときに最後に薄く藍染めされた紙素で漉き上げる技法。部分的に行うと雲紙になるものだが、全体的に均一に行うとこの料紙のようになる。地紙が少し黄味を帯びていて、薄く藍をかけると全体的に緑色を呈する。藍の紙素を厚めにすくうと薄い藍色になる。当時はよく使われた技法で、遺品も多い。と書いたところで、とある資料を確認したら、五島断簡の料紙は素紙に雲母砂子撒きと書かれていた。漉き紙だと記憶していたが、どうなんだろうか。次に展示された機会に確認してみよう。

五島断簡のちらし方は比較的穏当なもので、重ね書きをしたり返し書きをしたりと、もっと派手な遺品もあるなかでは、わりと普通な感じがする。しかし、歌の頭に記された「古」の文字がうれしい。これは所収勅撰集を注記した集付けで、定家によるものと考えられている。

新古今集の撰者の1人であり新勅撰集の単独撰者であった定家は、勅撰集編纂の資料のため、歌集を集めたり新たに書写したりさせたりして、私家集を中心とした歌集の一大コレクションを形成していた。そして、勅撰集は重複を避けるため、既出のものに印をつけていた。升色紙に見られる「古」の字もこの集付で、古今集に収録されているためもう勅撰集には採れないよという意味。つまり、この升色紙(の切断される前の冊子本)は定家が持っていた本だということになる。

定家などという有名人が出てくると、眉に唾をつけたくなるのが人情というもの。しかし、実はそれほど疑う必要のないものだったりする。というのも、定家が所蔵していた本はほかにも数多く残っているのだから。それは子孫の冷泉家が守り伝えたもの。近世にだいぶ流出していると思われ、巷間にあるものも冷泉家伝来のものが多いのだろう。升色紙も、冷泉家伝来品だと考えれば、さかのぼって定家手沢本だと考えることに無理はないのだ。そしてこの升色紙と定家を結びつけるのが、五島断簡などにある集付の文字なのである。

石山切と岡寺切

石山切は、本願寺本三十六人集のうち伊勢集と貫之集下の断簡で、1929年に切断分割されたもの。数多く伝存することもあり、またそれぞれ特徴もあるので、できれば両方所蔵している方が望ましいが、残念ながら五島美術館には伊勢集1葉しか存在しない(掛幅装)。しかし、代りと言っては何だが岡寺切が2葉ある(手鑑「筆陳毫戦」、鴻池家旧蔵手鑑に各1葉づつ)。

本願寺本三十六人集のうち2帖を切断するにあたって、伊勢集と貫之集下が選ばれたのは、それぞれ料紙と筆跡が主な理由だろう。もちろん伊勢集の筆跡も貫之集下の料紙もすばらしいが、継ぎ紙が多いからこそ伊勢集が選ばれたし、藤原定信の筆跡だからこそ貫之集下が選ばれた。とはいえ定信は順集と中務集も担当しており、なぜそれらではないのかはわからない。分量の問題だろうか。

そう、定信は貫之集下だけでなく順集も書いているのだ。そしてこの順集は江戸時代に一部抜き取られており、断簡として伝存している。継ぎ紙のものとそうでないものがあり、前者を糟色紙、後者を岡寺切という。五島美術館が所蔵している2葉(茶の染紙に銀泥下絵、連続する)も、この順集の断簡なのである。石山切貫之集下の欠落を補うのに十分だろう。

石山切の方に話を移そう。五島断簡の特徴を1つあげるとするならば、2頁分あるということだろう。連続する2葉で、もと見開きだったもの。古筆は1頁ごとに伝来することが多く、石山切も例に漏れない。高価だからか。他の美術館などで目にする石山切は、数幅同時に掛かっていても1頁分のみのものが多い。見開き2頁の断簡を所蔵しているというところはさすが五島美術館だ。

とはいえ、料紙の裏面であるというのは少し残念な気もしないではない。料紙装飾は表面の方が映えるので。五島断簡の右頁は破れ継ぎとわずかに重ね継ぎのある継ぎ紙(裏面)で、左頁は片面刷りの唐紙の裏面で(つまりこの面には雲母刷り文様はない)、胡粉地に銀泥下絵。特に左頁は装飾がすくなくさみしい感じがある。しかし、なぜ数少ない2頁分の遺品なのにも関わらず、表側ではなく裏側なのか。見開き2頁の他のを確認すると、表のもあれば裏のもあって、あえて裏側を選ぶという選択肢もあったようだ。想像するに、表面は1枚の料紙であり、装飾は連続するが、変化がないのでおもしろみに欠けるという考えもあったか。一方、裏面は左右で料紙が異なり、つまり料紙装飾が異なる場合がおおく、それによって変化を付けられるということがあるのだろう。にしても、もっと見栄えのする2枚はあったような気がする。北村美術館の破れ継ぎ/切り継ぎのセットや和泉市久保惣記念美術館の両面刷り唐紙/切り継ぎのセットのように。まあ、控えめなところがいいということなのかもしれない。

なお、五島断簡にもある重ね継ぎについて1つ疑問がある。古筆切は相剥ぎという工程を経る。つまり表裏を剥がして2枚に分けるのだけれども、重ね継ぎの部分は薄様を用いているので相剥ぎできない。にもかかわらず、表裏ともに重ね継ぎが残っているのはどういうことなのだろうか。おそらく、どちらかが新たに作った紙で補完しているのではないかと思われる。そしてそれは裏面である可能性が高いのではないか。

もう1点。破り継ぎについて、紙を破って貼り合わせるというような解説を目にすることがある。切断面を同じ曲線にして継ぐ技法なので、破るなどという粗雑な手法では不可能であり、当然小刀で切断しているはずだ。名称に引きずられすぎだとも言えるが、そもそも名称がおかしいような気もする。

小倉色紙

小倉色紙とは、百人一首歌の歌のみが1首4行に書かれた色紙で、50枚程度が伝存する。料紙は装飾されたものもあれば、反故紙と思しいものも。筆跡は定家風。宇都宮頼綱が嵯峨中院山荘の障子を飾るために定家に作成を依頼したものだという。

しかし、この小倉色紙はかなり怪しげなもので、その多くは定家の真筆とは考えられず、後世の贋作だという見解もある。さらに言えば、百人一首の撰者は定家ではないのではないかとか、山荘の障子を飾るのに色紙100枚は多すぎるとか、小倉色紙にまつわる問題がいくつか指摘できる中で、わずか5枚ながら定家真筆と考えることのできるものが存在する。「こひすてふ」「あひみての」「たちわかれ」「しのふれと」「さひしさに」の5葉。このうち「こひすてふ」は徳川美術館蔵、「あひみての」は五島美術館蔵、ほかの所蔵は不明。偽物が多いと思われる小倉色紙の中に、わずかに存在する定家真筆と考えられるものを五島美術館は所蔵しているわけだ。

しかし、この五島断簡などは、定家真筆だったとしても嵯峨中院山荘の障子を飾った色紙そのものだとは考えられない。というのも、これらは手控えか下書きのようなものだったと考えられるから。そんなものが何故残ったのか疑問に思う向きもあろうが、升色紙の項に書いたように、定家はその子孫が典籍や文書、記録を伝えている。定家が廃棄しなければ、むしろ子孫は積極的に保存しそうであり、一部が残ることになんら不思議はない。

一方、清書の小倉色紙は現存するのだろうか。下書きなどと考えられる真筆5枚以外は、後世に捏造されたものと思われるが、そのなかにひょっとしたら嵯峨中院山荘を飾ったものがあるかもしれない。たぶん無いだろうけれども。

以上の話は田渕句美子さんの研究に基づくが、それにまつわる講演の動画が公開され、紹介しやすくなったのはありがたい。

主題は、小倉百人一首は定家撰ではないこと、定家が撰んだのは百人秀歌で、のちに別人によって改作されたのが百人一首だという話。かなり説得力がある説だと思う。なお、ここで小倉色紙に関する認識は、名児耶明さんの研究に負っている。長いこと五島美術館に勤めていた書跡の専門家で、かつて「定家様」という展覧会を成功された実績もあるとのこと。

定家はかなり癖のある字を書く人だけれども、その筆跡を目にするとやはり上手いし魅力的だと思う。この前、松濤美術館で見た奈良博所蔵の明月記の断簡は素晴らしかった。冷泉家が守り伝えたことで、定家の筆跡は大量に残ってちる。もちろん、それぞれについて定家の真筆なのか、周辺の人が似せて書いたのかなどの判別が難しいという面もあるけれど。さらに、いわゆる書家ではないので、残るのは日記だったり歌集の転写本だったりで、書作品に当たるようなものは基本的に書いていない。

例外なのが小倉色紙。和歌1首を方形の色紙形に書き記すために、芸術性とでも言うべきものがより意識されているはずだ。実際に残っているのは清書ではないとはいえ、大量に残る定家の筆跡のなかでも特殊な位置を占めるものと言っていい。五島美術館が所蔵しているものは、単なる定家の真筆(それだけで十分価値がある)という以上のものなのである。

以下、余談。百人一首が定家撰でないという説は、十分な説得力を持つと思うが、1つだけ気になることがなくはない。つまり、いつ誰が百人秀歌を改作し百人一首に昇華したのかということ。細かい変化は段階的に行われた可能性があるが、それはさておき、決定的な変更を行ったのは誰なのか。

百人一首は江戸時代以降大いに広まり、日本人の美意識の形成に一役買い、またカルタ遊びも生まれ、現代に至って競技化されるなど、かなり浸透したものだが、百人秀歌のままだとしたらここまで広まらなかったのではないかと思われる。わずかな改作であるが決定的な変更でもあった。日本の古典文学史上、定家は屈指の編集者であると言えるが、その定家撰の百人秀歌の問題点を見抜き、最低限の手直しで百人一首という日本文学史上もっとも重要な作品の1つに作り変えた人物がいるのだ。天才なのでは。動画の中で百人一首に関する新刊が予告されていたけど、この辺りの話が出るか期待している。

*1:高知県高知城博物館蔵

*2:湯木美術館蔵

*3:伝公任筆本

*4:個人蔵

*5:公益財団法人防府毛利報公会蔵

*6:中央大学学術リポジトリ

*7:寸松庵色紙の伝存点数および改竄の一端

めぐりあうものたちVol. 1|松岡美術館(2022.4.6~7.24)

今回の展覧会は、常設展示の他に展示室1で「中国青銅器 形と用途」、展示室4で中国陶磁器の展示「二色の美」、展示室5と6で絵画展示「故きを温ねて」が開催されていた。

展示室1の「特別展示 中国青銅器 形と用途 - 松岡美術館」は古代中国の青銅器の展示で、わずかに7点ながら魅力的な展示。形と用途に注目した展示で、食器、酒器、水器(手を清めるためのもの)、楽器に分類。なかでは水器の史頌匜が魅力的。また饕餮文觚がいいものに思えた。

展示室4の「松岡コレクション めぐりあうものたち Vol.1 二色の美 - 松岡美術館」は五行思想の紹介をしつつ、その5色、とくに白となにかの色の組み合わせを見ていく。あまりしっくりこなかった。なかでは《白磁褐彩 俑群》

展示室5と6の「松岡コレクション めぐりあうものたち Vol.1 故きを温ねて - 松岡美術館」は近世から現代の絵画の展示。1. 中国に由来する言葉・人、2. 福を呼び込む花鳥画、3. とこしえへの願い、4. 新たな出会いと章立てする。前期後期展示替えあり。これもまたグッと来るのは少ない。中国古代青銅器を先に見てしまうと見劣りするか。なかでは滝和亭《桃林五牛図》と荒木寛畝《老松孔雀之図》がわりと好きだった。





国宝手鑑「見努世友」と古筆の美|出光美術館(2022.4.23~6.5)

「見努世友」修理完了記念の館蔵古筆展示に合わせて、館蔵茶道具の名品も紹介する展覧会。古筆の展示は34点、茶道具の展示は66点、展示替えは「見努世友」で頁替えがあるのみ。「Ⅰ 古筆の美」「Ⅱ 手鑑の世界ー国宝手鑑「見努世友」の修復後大公開」「Ⅲ 古筆の香り」そして「特集 茶の湯の美ー茶道具の名品」に分かれる。

「Ⅰ 古筆の美」では、古写経と平安から鎌倉初期の古筆の展示。展示されていた古写経は薬師寺経巻94、絵因果経巻3上、扇面法華経断簡、清衡経断簡2葉で、もともとコレクションの数は少ないが、派手で見栄えのするもの。なかでも奈良時代(もしくは平安時代初期)の絵がほとんど褪色もなくきれいに残っている絵因果経はなんど見てもすごい。扇面法華経断簡は掛幅装。裏面はどこにあるのだろうと気になってしまった。下絵もないし経文も続かないし。古筆は継色紙2幅、高野切、大内切、石山切伊勢集2幅、石山切貫之集、東大寺切、中務集、三井寺切、定頼集、久松切巻下。継色紙が2葉並ぶのは圧巻。1つは半首切だけれども。「むめのかの」の解説に「料紙の紙質(表裏)の相違から今と異なる姿であったことが想像される」とあった。たしかに左右でわずかに見た感じが異なり、中央に継ぎ目があるようだ。とするともともと見開きの部分ではなく、泣き別れ・渡り書きの部分かと思ったが、零本の複製本の該当箇所を見ると見開きとなっている。不思議だ。なお「(表裏)」との記述は不可解。継色紙は裏面には書かないはず。高野切は巻1の46~49番歌。巻頭に比べると力の抜けた感じでこれもまたいい。大内切は舶載唐紙なのか状態あまり良くないものの端正な字。石山切は3葉あって、伊勢集と貫之集下両方で、かつ継紙ありとうまく揃えている感じ。伊勢集のをりとめての「人/\」のところが好き。東大寺切は料紙がすこし変な感じがした。変色しているということなのだろうか。ああいうのは初めて見た気がする。中務集と定頼集はガラスの存在を感じさせないケースに入れられており、直に拝見しているようだ。中務集はいつもとは違うところが開いていた気がする。定頼集は定家真筆認定されていたが、先日の松濤美術館での奈良博所蔵品展でみた明月記に比べると魅力が乏しく思った。

「Ⅱ 手鑑の世界ー国宝手鑑「見努世友」の修復後大公開」では見努世友の他に3点4帖の手鑑が展示されていた。これらは平安古筆などが剥がされているようで、中世古筆のところを数葉から十数葉展示。そして見努世友。修復によって表裏を別の帖に仕立てたため表裏を同時に展示できるようになっており、長い壁面ケースを使ってたっぷりと展示していた。とはいえ全部ではないけれども。表で特に気になるのは2重縦罫線の中聖武、藍紙の五月一日経願文断簡。裏は羅文が美しい筋切、継紙の糟色紙、鎌倉切の紫紙もきれいだった。頁替えがあるという。

「Ⅲ 古筆の香り」では鎌倉時代から江戸時代のものまで。光広の九条殿御集がすき。

「特集 茶の湯の美ー茶道具の名品」は力尽きてあまりよく見ていなかったが、それでも玉澗の《山市晴嵐図》は魅力的だった。

SHIBUYAで仏教美術 ―奈良国立博物館コレクションより|渋谷区立松濤美術館(2022.4.9~5.29)

奈良国立博物館仏教美術を紹介する展覧会。リストに上がっているのは83点だが、訪問したのは前期のB期間で、66点の展示。

地下1階が「第1部 日本仏教美術の流れ」と題され「第1章 釈迦の美術」「第2章 密教」「第3章 浄土信仰」「第4章 神仏習合」「第5章 絵巻」に分かれる。残念ながら、大きくない会場の多くない展示数の中で、日本仏教美術の流れという大きな話をするのは無理があるように感じ、雑然と並んでいるという印象が強い。というわけで、章にこだわらずに印象に残った作品をいくつか挙げたい。《不動明王二童子倶利迦羅龍剣像》(13)はわずかに朱を差しただけの白描絵ながら技量が高くかつ迫力満点。《倶利迦羅龍剣二童子像》(17)もかっこいい絵だが、中央の倶利迦羅龍剣より脇の二童子の方になんとなく目が行く。《三鈷杵》(25)は川端康成旧蔵で、文鎮に使っていたこともあるという。《阿弥陀聖衆来迎図》(31、前期、ColBaseに見当たらず)は、非常に数多くの聖衆(菩薩衆)を伴うが、大量のこけしが描かれているような感じでちょっとおもしろい。《辟邪絵》(49)は《天刑星》、《栴檀乾闥婆》、《毘沙門天》の3幅が展示。グロテクスなところもあるがすばらしい絵だと思う。詞書が鬼類に同情的なのが意外なところ。《泣不動縁起》(51、前期は上巻、後期は下巻、展示箇所の画像はColBaseになかった)は洗張しているところや、安倍晴明が祈祷しているところなど。愛らしい妖怪が描かれていた。

2階は「第2部 珠玉の名品たちーまほろばの国から」として「第1章 御仏と出会うー仏像」「第2章 うるわしの書」「第3章 仏教工芸の粋」として仏像、書跡、工芸の展示。まほろばの国からと副題がつくが、単に奈良博から来たというだけの意味のようで、とくに奈良にゆかりのものを集めたとかそういうものではなかった。メインビジュアルに使われている《如意輪観音坐像》(8)はリスト上は第1部だが展示はこちら。想像より大きく、写真で見るより不思議な印象を与える作品。書では《明月記断簡》がよかった。しかし、仏教美術なのか?《転法輪筒》(76、ColBaseに見当たらず)は木製の筒で怨敵降伏の際に筒の中に相手の姿や名を記した紙を入れ込むものらしい。

藝大コレクション展 2022 春の名品探訪 天平の誘惑|東京藝術大学大学美術館(2022.4.2~5.8)

藝大美術館のコレクション展。

今回の目玉は《浄瑠璃寺吉祥天厨子絵》浄瑠璃寺の吉祥天立像の厨子だったが、厨子のみ流出して藝大が所蔵するもの。像は2017年三井記念美術館の「奈良 西大寺叡尊と一門の名宝 」展で拝見したけれど、こんなすばらしい厨子に入っていたものだったのかと。鎌倉時代建暦2年頃の作品だが、天平の香りもある作品で、厨子の内部のため状態は素晴らしく鮮やかに色が残っていた。

《繍仏裂》法隆寺献納宝物の《灌頂幡》に付属していたと推定されるものだそうで、類似する《繍仏裂》も献納宝物にあり、もとは一緒に伝わったものだろう。宝物館で見た記憶が無いので、ここで見れるのはうれしい。両面刺繍とのこと。

正真正銘の天平物は《月光菩薩坐像》。胴部が失われるなど状態が良くないのが却って想像を掻き立てるのか、またきれいに残る顔は切れ長の目が印象的でもあり、力強い存在感を感じる。

近代画もいくつか出ていた。なかではやはり狩野芳崖《悲母観音》が圧倒的。高い位置に展示されており、見上げる観音の姿は神々しい。ほかには山本芳翠《猛虎一声》菱田春草《水鏡》

おもしろかったのが《綵観》。さまざまな絵画、浮彫、工芸などをコンパクトに手鑑のようにまとめたもの。橋本雅邦、高村光雲宮川香山(二代)などが参加している。