大阪旅行3泊4日

そろそろどこかに旅行に行こうかなと考えていたところ、大阪市立美術館がリニューアルのための長期休館前に大規模なコレクション展をしているとのことで大阪にした。残念ながらそのコレクション展はそれほど自分には刺さらなかったし、それ以外の美術館も好みの展覧会ではなかったり休館中だったりで、展覧会という観点から言うとあまりいい時期ではなかったようだけど、古墳や寺社などの名所はよく、楽しい一人旅だった。

要約

  • 古墳の植樹は日清戦争の賠償金?
  • 大山古墳前方部の石棺
  • 四天王寺法隆寺の伽藍配置
  • 大阪の広群鶴と家隆墓
  • 軽里大塚古墳の拝所にせまる新しめの家々
  • 頼信と義家の墓の寂しげな感じ
  • 道明寺天満宮にあった名碑
  • 渦巻状に描かれた螺鈿の四条風俗図
  • 三津寺の上にビル
  • 昭和32年の車両

1日目

3日目と4日目の天気が怪しいとのことで、百舌鳥と古市の古墳巡りは1日目と2日目にすることに。そこで早起きして新横浜駅始発ひかり533号に乗車。後発の東京駅始発ののぞみに抜かれないように速く走るひかりとして鉄オタには有名らしく、なにかの機会に知ったもの。これがあれかと少し感慨を覚える。8:12新大阪着。ホテルは東横イン東梅田で大阪メトロ谷町線堺筋線南森町駅が最寄駅。大阪メトロ御堂筋線で梅田駅、東梅田駅まで歩いて谷町線に乗車して1駅の南森町駅に到着。ホテルに荷物を預けて、駅に戻り大阪メトロ堺筋線天下茶屋駅へ、南海高野線に乗換えて堺東駅に到着。堺市役所の21階展望ロビーへ。大山古墳の形を見るにはこの高さでも足りないようだ。観光案内所で地図を手に入れて田出井山古墳、方違神社を経て大山古墳へ。三国ヶ丘駅のみくにん広場にも寄って、拝所へ向かう。周濠に白鷺や青鷺の姿を見つつ、外側の濠に土橋があり、そこにわずかに古そうな石の柵が残っていた。かつての柵なのだろうか。拝所へ。絶好の天気に新緑も相まって最高の景色だった。そこにはボランティアの人がいて、少し話をした。古墳の森は日清戦争の賠償金を使って植樹したものだなんて興味深いことを言う。あとでざっくり検索したところ、そんな話は出て来ないけど念のため記しておく。植樹してはいそうだし、時期的にもそこまでおかしくはないような気もする。また大山古墳は常緑樹でこの時期がよく、上石津ミサンザイ古墳は落葉樹で晩秋がいいと。あえて変化をつけて植樹したのかもしれない。堺市博物館に行くと、大山古墳の前方部から発見されたという石室・石棺図(原本は八王子市郷土資料館蔵)およびそれをもとにした模型が。この図は國學院大學博物館の「好古家たち」展で見たものだ、柏木貨一郎のだとちょっと興奮。ほかに慶長大火縄銃(現存日本最長)や隋の観音菩薩立像(白檀の一材製、目や唇に彩色、重文)あたりに目が行く。その後、上石津ミサンザイ古墳へ。周濠が1重ながら広くてなかなかいい雰囲気。とはいえ古墳はもういいかなということで、JR阪和線で上野芝駅から天王寺駅へ行き四天王寺へ。西の石鳥居から入って西大門をくぐり金堂と五重塔を目にすると、伽藍配置が法隆寺と同じじゃないかとびっくり(左右は逆だけど)。伽藍配置の変遷図を見てるだけだと気づかなかったけど、両者はそれほど違いがないのだなと感じた。建物自体は新しいものなのでとくに感慨もなく。六時堂は江戸時代のもので流石に魅力的だった。宝物館では白隠などを展示していたが、松陰寺と永青文庫の所蔵品の複製。よく確認しなかった自分も悪いとはいえ、こんなのに金をとるのかと。石鳥居の扁額など数少ない常設展示はいいものだったけど。四天王寺を出て、最古の企業金剛組の前をとおりつつ北上、家隆塚の手前によさげな石碑を発見した。もしかして広群鶴?なんて冗談交じりに思いつつよく見ると、まさかの大当たり。大阪にも広群鶴の刻碑があったのか。しかも2基も。右は日岡阡表。幕末の紀州藩士・国学者の伊達千広(宗広)の阡表で、子の陸奥宗光撰、日下部鳴鶴書。左は原敬による陸奥宗光追慕碑。七言絶句に建碑の理由を添える。家隆塚の側には享保年間の古碑従二位家隆卿墓碣銘幷序。かなり破損しているがなかなか趣がある。その後北上しつついくつか寄ったが、疲労困憊であまりよく見ず。写真を確認すると、浄春寺の田能村竹田墓を見ていないようだけど、理由を思い出せず。生國魂神社もさらりと流してしまい、西鶴像を見忘れてしまった。その西鶴などがある誓願寺へ。門前に石碑があり西鶴や中井甃庵・竹山・履軒の墓がある旨が記されていたが、「井原西鶴先生墓」の上は削られているのだろうか?墓地に伺って、何度も写真などで見た西鶴墓にお参り。散らばっている中井家3人の墓にも。どこかで見たことがあるようなタイプのお墓。当時の形式のひとつなのだろうか。近松門左衛門の墓にも行った後、契沖の旧庵で墓もあるという円珠庵へ。残念ながら契沖の墓は非公開らしく、またどうもスピリチュアル方面に傾斜しているようで、見学者はあまり歓迎されないようだ。真田丸跡を抜けて三光神社真田の抜穴跡を見学、大阪メトロの玉造駅から南森町駅へ、ホテルに戻る前に大阪天満宮に寄る。道真の生涯を人形で表した菅家廊下というのが非常にいい出来で驚いた。つづいて成正寺で大塩平八郎の墓を参拝したが、ずいぶんと新しいものに見えた。どういう由緒があるのだろう。ホテルに行ってチェックイン。喫煙可のお部屋3泊ですねと確認されてびっくり。間違えたのかわからんが仕方ないのでそのまま受け入れて部屋へ。幸いにも部屋は臭わず。ただ3日目に少し暑かったので冷房を入れると、臭い冷気が出てきたので、やはり禁煙の部屋にしないと。なお、大阪のタバコの状況は東京に比べるとかなりひどいと思った。歩きタバコや吸殻ポイ捨ては庶民的なミナミだけでなく、キタでもかなり見かけた。このとき17時ころ。ホテルでぐったりしたあと、梅田駅の方へぶらぶら。お初天神を見て、551蓬莱梅田阪神店で夕食。ホテルに戻って眠りについた。

2日目

この日は古市古墳周辺を巡る日。とりあえず葛井寺に行こうと谷町線天王寺駅へ。大阪阿倍野橋駅から近鉄南大阪線に乗車するも乗り間違えて古市駅まで行ってしまう。仕方ないのでまずは軽里大塚古墳へ。拝所周辺にわりと新しそうな家がびっしり建っており、ちょっと不思議な感じ。雰囲気が壊れているようにも思えるが、仕方のないところか。白鳥神社に寄ったあと、古市駅に戻って近鉄南大阪線上ノ太子駅へ。ふと逆側の出口に出てしまうというアクシデントが有りつつ、叡福寺へ。廐戸皇子の墓の可能性が高いという叡福寺北古墳を見てると、小学生の一群が先生に引率されて古墳前に並び、みんなで般若心経らしきものを唱えだした。某宗教系の小学校で、こういう形でも宗教教育を行っているようだ。古墳の脇にある太子廟窟偈碑もいい碑だった。側面には龍が彫られている。江戸時代辺りだろうか。下部は欠損しており、亀趺は後補か。首や足を引っ込めた状態なのはなにか理由があるのだろうか。いまざっくり画像検索した限りでは出している方が普通のようだ。叡福寺を出たあと伝馬子墓、もどって西方院、そして源氏三代の墓へ。標識にしたがって頼信と義家の墓に向かうとなんとも怪しげな雰囲気。というよりほとんど無くなりかけているような道を通ってたどり着いた2人の墓はなんとも寂しげな感じだった。とくに八幡太郎がこんな扱いなのは意外に思う。江戸時代、徳川家にとっては重要な人物だったと思うのだが。通法寺跡と頼義の墓に参拝したあと、壺井八幡宮へ。上ノ太子駅へ戻り、再び古市駅に降りる。誉田八幡宮に行くと立派なフジが。白藤らしいけど、検索してもこのフジのこと花のことがあまりでてこないのはなぜだろう。誉田山古墳の拝所は今まで見た中でもっとも雰囲気のあるものだった。大山古墳は車通りの多い道に面しているし、ボランティア含め人も多い。上石津ミサンザイ古墳も道沿い。軽里大塚古墳は先述のように家が密集している。しかし、この誉田山古墳は道路から離れて奥まっており、周囲に何もなく静かな場所だった。道明寺はちょうど月に2回の御開帳の日。山門の陰のベンチで本を読んでいるじいさんがなかなかいい。旅行中、外で紙の本を読んでいる人を何人か見かけた。つづいて道明寺天満宮へ。注連柱がかっこいい。明治45年藤沢南岳撰書。しかしそれより素晴らしいのが八島君之廟窟碑。もとの墓石が朽ちたので元文5年に再建したものだとのこと。八島君之廟窟碑建碑由来碑が側に建っているがこれもまたいい。ちょっと場所が荒れているというか草ぼうぼう。もうしこし整備してほしいなあと思った。ただ公式サイトに石造物のページがあって、翻刻や解説が充実。すばらしい神社だ。道明寺駅から近鉄南大阪線で大阪阿倍野橋駅へ。大阪市立美術館に向かう。天王寺公園の中を進み、旧黒田藩蔵屋敷長屋門をくぐると美術館のサイドへでた。なんで西側を向いているのだろう?建設当時は通天閣の方が正面であるべきだということだろうか。美術館はアプローチがわりと重要だと思う。交通の便から行くと天王寺からのアプローチが多いと思うので、すこし残念なことになっているような。大阪市立美術館で開催中の華風到来はコレクション展で中国美術とその影響をうけた日本美術を主題とするもの。併設展示として大阪市立美術館の歩みとコレクション。キャプションに一言コメント、そして解説ともにクセがあるというか笑いを入れようとするところ、大阪の流儀なのか。正直ちょっと抵抗があった。また展示もあまり好みの作品は多くなく。気になったのをいくつか挙げる。伏生授経図は作者が伝 王維だという。青銅 呉王伍子胥図画像鏡の自刎している場面。青銅 雷文鍑と青銅銀錯 雲気文鏊は生き物のようで、また愛らしい。沈府君神道闕拓本は以前早稲田大学會津八一記念博物館で見ていいなあと思ったもの。相変わらずいい。石造 四面像(109)の側面の化け物。青磁象嵌 葡萄唐子文瓢形水注はどういう技法なのだろう。そして唐子がかわいい。こんな絵も描くのかと思った橋本関雪の讃光。人物鳥獣模様綴織覆布は8世紀コプト(エジプト)のものだという。布が残っているというのは凄いな。正倉院法隆寺などでの伝来品ならともかく出土品で残るのは乾燥した気候だからか。青銅 鴟鴞形水滴がまたかわいい。美術館を出て通天閣へ。キッチュなところがすこぶる大阪だなあと。恵美須町駅から大阪メトロ堺筋線南森町駅、ホテルに戻る。

3日目

ホテルを出て南森町駅から大阪メトロ谷町線谷町四丁目駅へ。大阪城天守閣へと向かう。ぐるりと回って玉造口から楼門を通ってオープンの9:30ころ到着。あまり解説を読む気分でもなく、展示物も惹かれるのは少なかったが、四条風俗図螺鈿大盤というのが素晴らしかった。中央に祇園社、周囲にぐるりと渦を巻くように四条通りの賑わいが螺鈿で描かれる。下に車輪があって回るという。天守閣を出て極楽橋を渡り京橋口から京橋を渡って藤田美術館へ。無駄を削ぎ落としたこだわりの美術館らしく、わりと受けがいいようだが、個人的にはあまり好みではなかった。とりあえず受付台くらいは置いておいたほうがいいと思う。一方、列形成のためのベルトパーテーションは使ってたりする。あれは完全に浮いているので取っ払ったほうがいいのでは。初訪問の人にはもろもろ分かりにくいのでスタッフへの依存が大きそうな施設だと思った。展示室は見やすくていいけど。去夏帖を手に入れていたのか。寸松庵色紙に墨映りあり。曽根崎通り銀橋を渡って泉布観と旧桜宮公会堂。造幣博物館はサラッと流して、南森町駅から谷町線東梅田駅、梅田駅まで歩いて大阪メトロ御堂筋線なんば駅へ。551蓬莱本店で食事後、法善寺、法善寺横丁、道頓堀商店街、戎橋を渡って三津寺に行ってみたら工事中。ビルを建てるらしい。本堂貴重じゃなかったっけ?とおもったら本堂残して上に被さるように建てるとのこと。安心したけど、なかなか強引だ。大丸心斎橋店は建て替え前に一度行ってみたかったなあ。もちろん今でもすてきだけど。北上して湯木美術館。「金工の茶道具と釜の魅力」という渋好みの展覧会。古銅桔梗口花入とかいくつか惹かれたのもあったけど、楽しむのは難しいものだった。淀屋橋を渡って日本銀行大阪支店、大阪中之島図書館大阪市中央公会堂をながめて北浜駅から大阪メトロ堺筋線で動物園前駅まで、そして今池駅から阪堺電気軌道阪堺線に乗車。ずいぶん古い車両だなあと確認すると、帝国車両昭和32年。65年前だ。すごいな。なお車内アナウンスが人口音声という対比がまたいい。調べてみるともっと古いのもあるようだ。住吉鳥居前駅についたのは16時ころ。住吉大社は4つある本殿の配置がおもしろく、実物を前にすると不思議だなあと。楠珺社と卯の花苑が16時までで入れなかったのが残念。帰りは別ルートを取ろうと、南海本線住吉大社駅から天下茶屋駅へ大阪メトロ堺筋線に乗車して南森町駅、ホテルへ。

4日目
最終日。ホテルをチェックアウト後、南森町駅へ行き、大阪メトロ谷町線谷町四丁目駅を出て、難波宮から越中井を経て大阪カテドラル聖マリア大聖堂へ。設計は長谷部鋭吉で、1963年落成。とてもすてきな建物だった。玉造稲荷神社では阪神淡路大震災で倒壊したという秀頼寄進の鳥居を見学。太子が戦勝を祈った神社だという。そのあと大阪歴史博物館へ。10階の古代は力が入っておりとてもおもしろく見学した。複製品とはいえ日本最古の万葉仮名木簡が見れたのはうれしい。それ以外の階はずいぶんと薄味に感じた。展示スペースがそれほどないのに巨大模型を作り、実物展示や解説が不十分、時代もどんどん飛ばされていって、なんだかなあという施設だった。最後に万博記念公園を目指し谷町四丁目駅から大阪メトロ谷町線で大日駅、大阪モノレール線に乗り換えて万博記念公園駅へ。太陽の塔を見つつ、国立民族学博物館に至る。とてもおもしろい施設であることは間違いないんだけど、ボリュームが多すぎでざっと見ていくに留めた。万博記念公園駅にもどり大阪モノレール線千里中央駅へ、北大阪急行電鉄に乗り換えてそのまま御堂筋線に入り、新大阪駅着。

五島美術館の古筆 その1

東京都世田谷区にある五島美術館は、茶道具や書跡のコレクションが充実した美術館で、併設の大東急記念文庫にも貴重な典籍が収蔵されている。収蔵品にはさまざまなジャンルがあるが、その中でも特筆すべきは古筆のコレクションではなかろうか。日本には(少ないながら世界にも)古筆を所蔵している個人や機関は多いが、五島美術館のものは屈指と言っていいだろう。しかし、そのコレクションの全貌を紹介するようなものがないのは残念なことだ。もちろん、五島美術館でも所蔵品図録や展覧会図録などを出しており、また公式サイトにコレクション・ページもあって、その中で取り上げられている作品もある。だが、それは極一部に過ぎず、まったくもって不十分だと言っていい。そのため、美術館には主だった古筆作品を紹介する書籍を刊行してほしいと願っているが、なかなか難しそうだ。ならば、自分でやってしまおうと思った次第。私は美術館とは関係がないし、また画像の使用許可を取るような手間をかけるつもりもなく、かといって無断使用するつもりもない。結果として画像は一切なく、分かりにくい記事になっているのは心苦しいが、ご寛恕いただきたい。今回はその第1回として、高野切、継色紙、寸松庵色紙、升色紙、石山切と岡寺切、小倉色紙を取り上げる。

高野切第1種と第2種

古筆を代表する作品のひとつの高野切。古今集の古写本で、11世紀半ばの書写と考えられている。現存品には3つの筆跡が認められ、それぞれ第1種・第2種・第3種と呼び分けられている。五島美術館が所蔵するのは第1種と第2種が1幅づつで、第3種を欠く。しかし、3種全て揃うというのは珍しく、たとえばあの東博ですら第1種がなかったりすることを考えれば、2種あるだけでも十分素晴らしいと言っていいだろう。しかも、それらがそれぞれにいいものだというところに、さすが五島美術館といった感じがする。

第1種は巻1の巻頭の断簡。第1種には巻20の完本*1があり、また高野切の名称の由来に関わるといわれる巻9の巻頭断簡*2も著名だ。そして、それに続いて重要なのがこの五島断簡だろう。丁寧に書写されており、ここからこの本を書き始めるのだという緊張感をひしひしと感じる。巻1の後ろの方の断簡、たとえば出光美術館やアーティゾン美術館所蔵品になると、緊張もとれたのか力の抜けた軽やかさがでている。どちらがいいかは好みの問題だと思うが、本断簡が貴重な遺品であることは間違いない。

なお、高野切は序について議論がある。そもそも序が有ったのか、あったとすれば仮名序なのか真名序なのか、両序具備するのか。序にあたる断簡は1行たりとも残っていないこと、古今集には序のない伝本も存在する*3こともあって特定は難しいが、私はおそらくなかったのではないかと考えている。序があればその筆者は第1種の人が担当しそうで、まず序から書き始めそうなものだ。しかし、この第1種の筆者は、巻1巻頭から書き始めているように思える。かなり粗雑な意見であることは承知の上。ただ、思いついたことなので、いちおうここに書き記して置く。

第2種の五島断簡の特徴は大きいところ。5首17行。書跡の鑑賞は点・線・面でみるという。1字1字の点と、各行の線、そしてある程度のまとまりをもった面。この面の鑑賞には、2行3行などの小さく切断された断簡では適さないが、第2種のは手鑑に押されたのを中心にそういう短い断簡が多い。そのなかにあって珍しい大断簡であり、見応えがある。もちろん2巻残る完本、巻5*4や巻8*5には及ばないとはいえ。

継色紙

五島美術館には三色紙が揃い踏みしていて、それ自体珍しいことであるが、またそれぞれに特徴がある。

まずは継色紙。もとは粘葉装冊子本で、未詳歌集の写本。おおむね和歌1首を2頁に散らし書きする。書写年代には諸説あり、はやくて10世紀中頃、遅くて12世紀とさまざま。10世紀末から11世紀はじめ頃と考えるのが穏当か。

さて、冊子本で和歌を1首2頁に散らし書きにすると書いたが、見開き2頁に書かかれたものを想像したのではないかと思う。実際、継色紙の遺品でもそう書かれたものもある。しかし、それに限ったわけではない。たとえば、左頁に上句を、ページをめくって右頁に下句を書くというのもあるのだ。厳密に言うと、継色紙は内面書写で、糊継ぎしている料紙裏側には書かないので、めくると白紙の見開きがあり、更にめくった右頁に下句が書かれる。このページをまたいだ書き方に特定の名称があるのかは不案内だが、「渡り書き」と呼ばれているのを目にしたことがあるので、ひとまずここではそう呼びたいと思う。五島断簡(掛幅装)は渡り書きされたものの1つで、向って右の断簡はもと左頁、左の断簡は右頁だったものだ。すこし上下にずらして掛幅に仕立てている。もともと見開きでこんなことをしてたら筆者への冒瀆に他ならないが、そうではないので一手間加えているのだ。

ちなみに、継色紙には他にも、1頁に1首を書いたところもあれば、見開きに1首書くが、左頁に上句を書き右頁に下句を書くという返し書きをするものもある。

閑話休題。不思議なのは、なぜ渡り書きという奇妙に思える書き方をしているのかという点。どういう意図があるのか。もしくは、意図がないならば、なぜこのような書き方に抵抗がないのか、可能なのか。おそらく現代人が和歌1首を2頁に書いてくれと言われれば、よほどひねくれてない限り渡り書きをしないだろう。ページや冊子に対する考え方が異なるのではないかと想像させる。

この違和感を覚える書き方は、巻子本に書写する感覚に由来するのではないかと考えてみたが、どうだろうか。巻子本では紙の継目に関係なく連続して書写するのが普通だ。継目があるからといって、そこを区切りとして意識して意味上のまとまりをつけなければならないということはない。そして継ぎ紙を巻子本に仕立てずに蛇腹状に折り畳めば折本という一種の冊子本ができる。さらに言えば、継目で山折り料紙中央で谷折りして折本を作り、そこから継目を剥がして逆側を糊で綴じれば、粘葉装の出来上がり。しかも、巻子本は表側のみにしか書かれないので、継色紙と同じ内面書写となる。これはもちろん粘葉装内面書写の実際の作成のされかたを示したものではなく、思いの外両者は近いものであるということを示したかった。巻子本の料紙の継目をまたいで書くような感覚で、粘葉装のページをまたいで書いたんじゃないかと考えるわけだ。そこで重要な手がかりとなるのが、かつて「伝行成筆古今集切」と呼ばれていたもので、池田和臣さんによって「未詳ちらし歌切」と新たに命名されている遺品。もとさまざまな色の料紙を継いだ巻子本で、現在はわずかに6葉が残るのみだが、そのうち3葉が色変わりの継目をまたいで和歌が書写されているのである。

この「未詳ちらし歌切」は、うち1葉が炭素14年代測定にかけられ、西暦1000年前後の数字がでたという注目すべきものである*6。もちろん、測定の結果は無条件に信じるべきものだというわけでもないし、また料紙の年代と書写年代が離れる可能性もある。とはいえ、以前から書写年代は高野切以前の可能性もあるのではないかと推定もなされていたことを考えると、無視できるものではない。そして、この切の料紙や筆跡について近いものとして挙げられるのが、関戸本古今集と継色紙。「未詳ちらし歌切」との関連を考える上でも、そして継色紙の書写年代を考える上でも、渡り書きの五島断簡は貴重であると思う。

なお、継色紙にはある程度時代が下ると思わせる要素があることも合わせて書いておきたい。たとえば返し書きのものはページに対する意識の強さを思わせる。また、現存品は上句下句を分けているが、これも比較的新しい感覚のように見える。鎌倉時代以後は和歌を2行書きするとき上句1行下句1行にすることがほとんどであり、それは現代にも続くが、実は平安古筆はそういうのをあまり気にしない。12世紀半ばころから意識されるようになってくるようで、厳密なのは藤原教長あたりがその先駆け。とすると、継色紙も上句と下句を分ける意識から書写年代も下げた方がいいのだろうか。しかし、行書きとちらし書きには差があるのかもしれないと今は考えておく。つまり、和歌の行書きの変化は行に対する意識の変化故だと。

寸松庵色紙

もとは粘葉装冊子本で、古今集の四季歌(詞書を除く)を書写したと考えられるもの。料紙は宋製の舶載唐紙で、和歌1首を1頁に散らし書きする。

唐紙は胡粉地に文様を雲母刷りしたもので、初めは中国から輸入していたが、のちに日本でも作られた。日本で作られた和製唐紙の特徴の1つは文様を両面刷りするものがあること。片面のみのもあるが、両面刷っていれば和製唐紙。つまり、舶載唐紙は片面刷りしかないということだ。寸松庵色紙の現存品にはすべて雲母刷り文様がある*7。つまり、表側にのみ書写している。粘葉装で表側しか使わないとなれば、継色紙とおなじで内面書写ということになるだろう。注記にリンクを貼った論文では内面書写だと明言されているが、ほかの解説であまり見かけないので、念のため書いておく。

舶載唐紙には、傷みやすいという特徴もある。胡粉がはがれ落ちやすく、その上に乗る雲母や墨ごと失われてしまうため、状態のよくないものが多い。寸松庵色紙も例に漏れず、雲母刷りの文様が判然としなかったり、文字も読みづらくなっていたり、さらには補筆をしているものまである。そのなかで五島断簡(掛幅装)は状態のよさが目を引く。雲母刷りの西瓜文様ははっきりしているし、文字も読みやすい。

更に言うと、五島美術館は展示の仕方がいいのだ。いい状態のものでも壁にかけては文様は見ることはできないだろうし、文字を読むのも難しい。しかし、ここでは掛幅をのぞきケースに寝かせて展示するという手法をとることがある。はじめてこの展示法で寸松庵色紙を見たときの印象は忘れがたい。輝かしい西瓜文様に目のくらむ思いがしたのだった。雲母刷りの本来の力を引き出す展示法は素晴らしいし、またそれに応えるだけの状態を保持した断簡でもあるのだ。

掛幅を寝かして展示するのは邪道だという意見もあるかもしれない。しかし、寸松庵色紙をふくめ古筆はもともと本なのである。壁にかけて本を読む人はいない。手に持ったり、机の上において読むものだ。その角度や距離で見たときに、筆跡も料紙装飾ももっとも美しいはず。つまり、掛幅装の古筆をのぞきケースに寝かせて展示するのは邪道どころか、もっとも正しい展示手法だと言ってもいいのではないかと思う。

さらによく見ると、布目のようなものがあることに気づくと思う。これは布目打ちという技法による装飾で、紙を漉いて乾かす前に布を押し付けて布目を写し取る技法らしい。それによって見た目に布っぽい感じがでている。書の支持体で代表的なのは紙と絹布。おそらく絹布のほうが格が上という意識があったのではないか。そのため紙を絹布に似せる布目打ちが行われた。雲母刷りも同様で、これは綾織を意識しているのではないかと思う。布目打ちが用いられるのは唐紙が多いような気がするが、それは唐紙が綾織で文様を織りだした絹布を目指しているからなのだろう。

升色紙

深養父集の断簡でもと冊子本。現存品はすべて切断され1頁ごとになっている。もともとの冊子本の綴じ方がはっきりしないが、綴葉装(列帖装)だろうか。1首を1頁に散らし書きにするのが通例。

五島断簡(掛幅装)の料紙は藍の漉き染め紙に雲母砂子を撒いたもの。雲母刷り同様、壁面ケースに掛けての展示だと雲母砂子は見づらいので、ここでものぞきケースでの展示が威力を発揮する(高野切もおなじく)。一部雲母砂子が見て取れない箇所があったような気がするが、破損して補筆したというようなことがあったのかもしれない。所詮はガラス越しに見ているのだけなので、確信は持てないけれども。

漉き染めとは、紙を漉くときに最後に薄く藍染めされた紙素で漉き上げる技法。部分的に行うと雲紙になるものだが、全体的に均一に行うとこの料紙のようになる。地紙が少し黄味を帯びていて、薄く藍をかけると全体的に緑色を呈する。藍の紙素を厚めにすくうと薄い藍色になる。当時はよく使われた技法で、遺品も多い。と書いたところで、とある資料を確認したら、五島断簡の料紙は素紙に雲母砂子撒きと書かれていた。漉き紙だと記憶していたが、どうなんだろうか。次に展示された機会に確認してみよう。

五島断簡のちらし方は比較的穏当なもので、重ね書きをしたり返し書きをしたりと、もっと派手な遺品もあるなかでは、わりと普通な感じがする。しかし、歌の頭に記された「古」の文字がうれしい。これは所収勅撰集を注記した集付けで、定家によるものと考えられている。

新古今集の撰者の1人であり新勅撰集の単独撰者であった定家は、勅撰集編纂の資料のため、歌集を集めたり新たに書写したりさせたりして、私家集を中心とした歌集の一大コレクションを形成していた。そして、勅撰集は重複を避けるため、既出のものに印をつけていた。升色紙に見られる「古」の字もこの集付で、古今集に収録されているためもう勅撰集には採れないよという意味。つまり、この升色紙(の切断される前の冊子本)は定家が持っていた本だということになる。

定家などという有名人が出てくると、眉に唾をつけたくなるのが人情というもの。しかし、実はそれほど疑う必要のないものだったりする。というのも、定家が所蔵していた本はほかにも数多く残っているのだから。それは子孫の冷泉家が守り伝えたもの。近世にだいぶ流出していると思われ、巷間にあるものも冷泉家伝来のものが多いのだろう。升色紙も、冷泉家伝来品だと考えれば、さかのぼって定家手沢本だと考えることに無理はないのだ。そしてこの升色紙と定家を結びつけるのが、五島断簡などにある集付の文字なのである。

石山切と岡寺切

石山切は、本願寺本三十六人集のうち伊勢集と貫之集下の断簡で、1929年に切断分割されたもの。数多く伝存することもあり、またそれぞれ特徴もあるので、できれば両方所蔵している方が望ましいが、残念ながら五島美術館には伊勢集1葉しか存在しない(掛幅装)。しかし、代りと言っては何だが岡寺切が2葉ある(手鑑「筆陳毫戦」、鴻池家旧蔵手鑑に各1葉づつ)。

本願寺本三十六人集のうち2帖を切断するにあたって、伊勢集と貫之集下が選ばれたのは、それぞれ料紙と筆跡が主な理由だろう。もちろん伊勢集の筆跡も貫之集下の料紙もすばらしいが、継ぎ紙が多いからこそ伊勢集が選ばれたし、藤原定信の筆跡だからこそ貫之集下が選ばれた。とはいえ定信は順集と中務集も担当しており、なぜそれらではないのかはわからない。分量の問題だろうか。

そう、定信は貫之集下だけでなく順集も書いているのだ。そしてこの順集は江戸時代に一部抜き取られており、断簡として伝存している。継ぎ紙のものとそうでないものがあり、前者を糟色紙、後者を岡寺切という。五島美術館が所蔵している2葉(茶の染紙に銀泥下絵、連続する)も、この順集の断簡なのである。石山切貫之集下の欠落を補うのに十分だろう。

石山切の方に話を移そう。五島断簡の特徴を1つあげるとするならば、2頁分あるということだろう。連続する2葉で、もと見開きだったもの。古筆は1頁ごとに伝来することが多く、石山切も例に漏れない。高価だからか。他の美術館などで目にする石山切は、数幅同時に掛かっていても1頁分のみのものが多い。見開き2頁の断簡を所蔵しているというところはさすが五島美術館だ。

とはいえ、料紙の裏面であるというのは少し残念な気もしないではない。料紙装飾は表面の方が映えるので。五島断簡の右頁は破れ継ぎとわずかに重ね継ぎのある継ぎ紙(裏面)で、左頁は片面刷りの唐紙の裏面で(つまりこの面には雲母刷り文様はない)、胡粉地に銀泥下絵。特に左頁は装飾がすくなくさみしい感じがある。しかし、なぜ数少ない2頁分の遺品なのにも関わらず、表側ではなく裏側なのか。見開き2頁の他のを確認すると、表のもあれば裏のもあって、あえて裏側を選ぶという選択肢もあったようだ。想像するに、表面は1枚の料紙であり、装飾は連続するが、変化がないのでおもしろみに欠けるという考えもあったか。一方、裏面は左右で料紙が異なり、つまり料紙装飾が異なる場合がおおく、それによって変化を付けられるということがあるのだろう。にしても、もっと見栄えのする2枚はあったような気がする。北村美術館の破れ継ぎ/切り継ぎのセットや和泉市久保惣記念美術館の両面刷り唐紙/切り継ぎのセットのように。まあ、控えめなところがいいということなのかもしれない。

なお、五島断簡にもある重ね継ぎについて1つ疑問がある。古筆切は相剥ぎという工程を経る。つまり表裏を剥がして2枚に分けるのだけれども、重ね継ぎの部分は薄様を用いているので相剥ぎできない。にもかかわらず、表裏ともに重ね継ぎが残っているのはどういうことなのだろうか。おそらく、どちらかが新たに作った紙で補完しているのではないかと思われる。そしてそれは裏面である可能性が高いのではないか。

もう1点。破り継ぎについて、紙を破って貼り合わせるというような解説を目にすることがある。切断面を同じ曲線にして継ぐ技法なので、破るなどという粗雑な手法では不可能であり、当然小刀で切断しているはずだ。名称に引きずられすぎだとも言えるが、そもそも名称がおかしいような気もする。

小倉色紙

小倉色紙とは、百人一首歌の歌のみが1首4行に書かれた色紙で、50枚程度が伝存する。料紙は装飾されたものもあれば、反故紙と思しいものも。筆跡は定家風。宇都宮頼綱が嵯峨中院山荘の障子を飾るために定家に作成を依頼したものだという。

しかし、この小倉色紙はかなり怪しげなもので、その多くは定家の真筆とは考えられず、後世の贋作だという見解もある。さらに言えば、百人一首の撰者は定家ではないのではないかとか、山荘の障子を飾るのに色紙100枚は多すぎるとか、小倉色紙にまつわる問題がいくつか指摘できる中で、わずか5枚ながら定家真筆と考えることのできるものが存在する。「こひすてふ」「あひみての」「たちわかれ」「しのふれと」「さひしさに」の5葉。このうち「こひすてふ」は徳川美術館蔵、「あひみての」は五島美術館蔵、ほかの所蔵は不明。偽物が多いと思われる小倉色紙の中に、わずかに存在する定家真筆と考えられるものを五島美術館は所蔵しているわけだ。

しかし、この五島断簡などは、定家真筆だったとしても嵯峨中院山荘の障子を飾った色紙そのものだとは考えられない。というのも、これらは手控えか下書きのようなものだったと考えられるから。そんなものが何故残ったのか疑問に思う向きもあろうが、升色紙の項に書いたように、定家はその子孫が典籍や文書、記録を伝えている。定家が廃棄しなければ、むしろ子孫は積極的に保存しそうであり、一部が残ることになんら不思議はない。

一方、清書の小倉色紙は現存するのだろうか。下書きなどと考えられる真筆5枚以外は、後世に捏造されたものと思われるが、そのなかにひょっとしたら嵯峨中院山荘を飾ったものがあるかもしれない。たぶん無いだろうけれども。

以上の話は田渕句美子さんの研究に基づくが、それにまつわる講演の動画が公開され、紹介しやすくなったのはありがたい。

主題は、小倉百人一首は定家撰ではないこと、定家が撰んだのは百人秀歌で、のちに別人によって改作されたのが百人一首だという話。かなり説得力がある説だと思う。なお、ここで小倉色紙に関する認識は、名児耶明さんの研究に負っている。長いこと五島美術館に勤めていた書跡の専門家で、かつて「定家様」という展覧会を成功された実績もあるとのこと。

定家はかなり癖のある字を書く人だけれども、その筆跡を目にするとやはり上手いし魅力的だと思う。この前、松濤美術館で見た奈良博所蔵の明月記の断簡は素晴らしかった。冷泉家が守り伝えたことで、定家の筆跡は大量に残ってちる。もちろん、それぞれについて定家の真筆なのか、周辺の人が似せて書いたのかなどの判別が難しいという面もあるけれど。さらに、いわゆる書家ではないので、残るのは日記だったり歌集の転写本だったりで、書作品に当たるようなものは基本的に書いていない。

例外なのが小倉色紙。和歌1首を方形の色紙形に書き記すために、芸術性とでも言うべきものがより意識されているはずだ。実際に残っているのは清書ではないとはいえ、大量に残る定家の筆跡のなかでも特殊な位置を占めるものと言っていい。五島美術館が所蔵しているものは、単なる定家の真筆(それだけで十分価値がある)という以上のものなのである。

以下、余談。百人一首が定家撰でないという説は、十分な説得力を持つと思うが、1つだけ気になることがなくはない。つまり、いつ誰が百人秀歌を改作し百人一首に昇華したのかということ。細かい変化は段階的に行われた可能性があるが、それはさておき、決定的な変更を行ったのは誰なのか。

百人一首は江戸時代以降大いに広まり、日本人の美意識の形成に一役買い、またカルタ遊びも生まれ、現代に至って競技化されるなど、かなり浸透したものだが、百人秀歌のままだとしたらここまで広まらなかったのではないかと思われる。わずかな改作であるが決定的な変更でもあった。日本の古典文学史上、定家は屈指の編集者であると言えるが、その定家撰の百人秀歌の問題点を見抜き、最低限の手直しで百人一首という日本文学史上もっとも重要な作品の1つに作り変えた人物がいるのだ。天才なのでは。動画の中で百人一首に関する新刊が予告されていたけど、この辺りの話が出るか期待している。

*1:高知県高知城博物館蔵

*2:湯木美術館蔵

*3:伝公任筆本

*4:個人蔵

*5:公益財団法人防府毛利報公会蔵

*6:中央大学学術リポジトリ

*7:寸松庵色紙の伝存点数および改竄の一端

巌斐道人墓記碑(東京都新宿区須賀町・西応寺)

翻刻
文政三年庚辰夏五月十三日長崎画工広渡巌斐疾
卒于江戸客舎享年五十有五其門人曁隣里助其寡
婦孤女葬之于四谷西応寺之後山嗚呼哀哉身客於
数千里之外損靡*1依之孤寡而没此所謂生民之至艱
而荼毒之極哀者也其妻大橋氏募力於生卒旧識買
石立碑請記於詩仏老人大窪行因読其家乗七世之
祖浪仙一湖者明慶州広渡人也避乱帰化住我長崎
以画糊口以広渡為姓不審其本姓巌斐名湖秀受家
伎業画後遊京師与柏如亭交其来江戸因如亭見余
其人風流灑落善飲善談是以人亦喜交之云妻大橋
氏縫紉自給以養其弧可謂不減任子咸之婦者也
文政三年歳在庚辰秋九月常陸大窪行撰并書江戸
河三亥題額           広群鶴刻字

【年月】文政3年9月
【題額】市河米庵
【撰文】大窪詩仏
【筆者】大窪詩仏
【石工】広群鶴
【所在】西応寺(東京都新宿区須賀町)
【概要】
長崎生まれで京都・江戸で活動した画工・巌斐広渡湖秀の墓碑。この広渡湖秀には長崎で活動した同姓同名同号、ほかにも共通点がある者の別人と考えられるものがいるらしい。よくわからない。

広渡湖秀 (江戸) - Wikipedia

題額は市河米庵で、撰文と書丹は大窪詩仏(罫線が引かれているので石碑に直接書いたと思われる)。広群鶴が碑を彫り、文中には柏木如亭の名が出てくるという豪華な碑。書も彫りもよく、いい出来の名碑だと思う。ただ、文を読むと、あまり気持ちが入っていない感じ。詩仏は面識もあるようで褒めてはいるが、それほど深い付き合いはなかったのだろうか。

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*1:「麾」の誤写か

山陽「雲桂新居篇」、小竹「雲桂篇賀秋吉国手新居」

君不聞雲中有月々有桂。呉剛揮斧斫其枝。一枝堕地化為人。骨格輪囷又離奇。身材即是姮娥薬。駈人病邪生人肌。莫怪雲桂猶姓秋。秋来看月多帰思。満腔熱腸出天性。不肯拳曲低鬚眉。矮屋打頭久不耐。恰如桂梢物圧垂。買断大屋大且敞。美哉輪焉歌於斯。仰視蟾宮如蝸殼。聊且邀月咲挙巵。上簞下莞夢熊羆。桂之芽孽益繁滋。
承弼作雲桂歌。賀其新居。雲桂使余亦和之。昨夕酒間見催。酒醒失寐。枕上腹稿今朝急書塞責。不復精思也。時戊子八月十二日。桂輪未円也。而花則已開矣。

●輪囷(りんきん):くねくね曲がる様。●離奇:曲がりねじれている様。●身材即是姮娥薬。駈人病邪生人肌:よくわからない。●熱腸:熱い心。とくに人助けに意欲的なことを言う。●美哉輪焉:美しく高大なことよ。〈礼・檀弓下〉●上簞下莞:安眠。〈詩経・小雅・祈父〉。●熊羆:男子が生まれる兆し。●孽:妾腹。

秋吉雲桂の京都の新居を言祝ぐ詩。後出の小竹の詩が先にでき、雲桂が山陽にも依頼した。山陽と小竹の真蹟双幅が秋吉家に伝わり、現在は東京国立博物館に所蔵される(B-1390)。

秋吉質、号・錦水、字・雲桂。医者で山陽の弟子らしいが、詳しいことは分からなかった。

頼山陽全書 詩集』(頼山陽先生遺跡顕彰会、1932年、pp.624-625)を参照した。

雲桂仙根択所託。自山之幽移京洛。京洛多桂如錯薪。爨炊徒供玉食人。雲桂不与凡桂伍。気烈味辛蠲病苦。霊名誰争百薬長。仙籍近通広寒府。卜居月窟隔雲層。始悟雲桂以雲称。井橘林杏莫猜疑。此宅於君猶一枝。
雲桂篇賀秋吉国手新居

●蠲:病気を治す。●広寒府:月の世界にあるという宮殿。●井橘林杏:医者。●一枝:〔荘子、逍遥遊〕鷦鷯深林に巣(すくら)ふも、一枝に過ぎず。●国手:名医。

『小竹斎詩鈔』を参照した。

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大槻盤渓、顕微鏡で精子を見る

主吉雄南皐氏。南皐崎澳訳監某子。今就尾藩辟。以翻訳洋書為業。所著有観象図説。是夜借其所蔵顕微鏡。照小虫及布帛。𤼭則似蝦。蝨則似蟹。縐紗絹紬則漁網筠籠。其他不能一二記也。予嘗観精液奇状於様板解剖図中。欲得而照之。請之塾生。終点一滴視之。則無数蠃形。活潑蠢動。或走或躍。行住不定。如群蟻争聚。如蛣蟩浮游。至微至妙。殆不可状。予於是益信太西氏不我欺也。観了置酒微醺就寝。

『西遊紀程』(文政10年)3月4日条(抄)。西遊紀程. 巻上,下 / 大槻清崇 著から引用した。名古屋で吉雄南皐を主とし、顕微鏡を借りた記録。「𤼭」は不明。「蝨」はシラミ。「縐」は縮緬。「蠃」は巻貝か。「蛣蟩」はボウフラ。

この件、中村真一郎頼山陽とその時代』で知った(ちくま文庫版上巻p.123)。どうしても入れたかった挿話なのか、すこし話の流れに違和感があったりする。

松平春嶽「逸題」

権貴争登猿若坊、彩棚呼酒伴紅妝。吾生不喜区々技、坐見乾坤大劇場。

木下彪『明治詩話』(岩波文庫)に「昔は大名はもちろんのこと、士大夫は芝居など見向きもしなかった。それが明治に崩れ、貴人は争って妓女を携え猿若に走った。詩はこれを嘲笑して自ら王侯の気宇を表している」(p.93)と言う。

「棚」は小屋の意で、「彩棚」で芝居小屋のことだろう。芝居を「区々技」と腐している。「乾坤大劇場」は南宋・載復古「夏日雨後登楼」の「今古両虛器、乾坤百戯場」を踏まえるか。

早稲田の演劇博物館逍遥記念室に、「乾坤百戯場」と書かれた逍遥の書が掛けられていた。これは、グローブ座のモットー「Totus mundus agit histrionem」の漢訳という。もちろんその通りなのだろうけど、これもまた載復古の詩から取ったのではないかと思う。

市河寛斎「長源寺観楓」

山夾清渓水夾家、千林秋葉艶於花。斜陽閑倚闌干立、一道炊烟焼晩霞。

東京国立博物館が寛斎自筆の掛幅を所蔵している(B-3188)。展示されているときに添えられた釈文では2つの「夾」を「来」にしていたが、採らない。たとえば楊万里「過厳州章村放歌」に「両岸秋山夾秋水」とあるなど。字形上も意味上も「夾」でいいと思う。

結句の意味がよくわからない。晩霞を焼いているのは斜陽だと思うが。

題は東博の展示キャプションに載っていたもの。どこの長源寺なのかの説明はなかった。

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