五島美術館の古筆 その1

東京都世田谷区にある五島美術館は、茶道具や書跡のコレクションが充実した美術館で、併設の大東急記念文庫にも貴重な典籍が収蔵されている。収蔵品にはさまざまなジャンルがあるが、その中でも特筆すべきは古筆のコレクションではなかろうか。日本には(少ないながら世界にも)古筆を所蔵している個人や機関は多いが、五島美術館のものは屈指と言っていいだろう。しかし、そのコレクションの全貌を紹介するようなものがないのは残念なことだ。もちろん、五島美術館でも所蔵品図録や展覧会図録などを出しており、また公式サイトにコレクション・ページもあって、その中で取り上げられている作品もある。だが、それは極一部に過ぎず、まったくもって不十分だと言っていい。そのため、美術館には主だった古筆作品を紹介する書籍を刊行してほしいと願っているが、なかなか難しそうだ。ならば、自分でやってしまおうと思った次第。私は美術館とは関係がないし、また画像の使用許可を取るような手間をかけるつもりもなく、かといって無断使用するつもりもない。結果として画像は一切なく、分かりにくい記事になっているのは心苦しいが、ご寛恕いただきたい。今回はその第1回として、高野切、継色紙、寸松庵色紙、升色紙、石山切と岡寺切、小倉色紙を取り上げる。

高野切第1種と第2種

古筆を代表する作品のひとつの高野切。古今集の古写本で、11世紀半ばの書写と考えられている。現存品には3つの筆跡が認められ、それぞれ第1種・第2種・第3種と呼び分けられている。五島美術館が所蔵するのは第1種と第2種が1幅づつで、第3種を欠く。しかし、3種全て揃うというのは珍しく、たとえばあの東博ですら第1種がなかったりすることを考えれば、2種あるだけでも十分素晴らしいと言っていいだろう。しかも、それらがそれぞれにいいものだというところに、さすが五島美術館といった感じがする。

第1種は巻1の巻頭の断簡。第1種には巻20の完本*1があり、また高野切の名称の由来に関わるといわれる巻9の巻頭断簡*2も著名だ。そして、それに続いて重要なのがこの五島断簡だろう。丁寧に書写されており、ここからこの本を書き始めるのだという緊張感をひしひしと感じる。巻1の後ろの方の断簡、たとえば出光美術館やアーティゾン美術館所蔵品になると、緊張もとれたのか力の抜けた軽やかさがでている。どちらがいいかは好みの問題だと思うが、本断簡が貴重な遺品であることは間違いない。

なお、高野切は序について議論がある。そもそも序が有ったのか、あったとすれば仮名序なのか真名序なのか、両序具備するのか。序にあたる断簡は1行たりとも残っていないこと、古今集には序のない伝本も存在する*3こともあって特定は難しいが、私はおそらくなかったのではないかと考えている。序があればその筆者は第1種の人が担当しそうで、まず序から書き始めそうなものだ。しかし、この第1種の筆者は、巻1巻頭から書き始めているように思える。かなり粗雑な意見であることは承知の上。ただ、思いついたことなので、いちおうここに書き記して置く。

第2種の五島断簡の特徴は大きいところ。5首17行。書跡の鑑賞は点・線・面でみるという。1字1字の点と、各行の線、そしてある程度のまとまりをもった面。この面の鑑賞には、2行3行などの小さく切断された断簡では適さないが、第2種のは手鑑に押されたのを中心にそういう短い断簡が多い。そのなかにあって珍しい大断簡であり、見応えがある。もちろん2巻残る完本、巻5*4や巻8*5には及ばないとはいえ。

継色紙

五島美術館には三色紙が揃い踏みしていて、それ自体珍しいことであるが、またそれぞれに特徴がある。

まずは継色紙。もとは粘葉装冊子本で、未詳歌集の写本。おおむね和歌1首を2頁に散らし書きする。書写年代には諸説あり、はやくて10世紀中頃、遅くて12世紀とさまざま。10世紀末から11世紀はじめ頃と考えるのが穏当か。

さて、冊子本で和歌を1首2頁に散らし書きにすると書いたが、見開き2頁に書かかれたものを想像したのではないかと思う。実際、継色紙の遺品でもそう書かれたものもある。しかし、それに限ったわけではない。たとえば、左頁に上句を、ページをめくって右頁に下句を書くというのもあるのだ。厳密に言うと、継色紙は内面書写で、糊継ぎしている料紙裏側には書かないので、めくると白紙の見開きがあり、更にめくった右頁に下句が書かれる。このページをまたいだ書き方に特定の名称があるのかは不案内だが、「渡り書き」と呼ばれているのを目にしたことがあるので、ひとまずここではそう呼びたいと思う。五島断簡(掛幅装)は渡り書きされたものの1つで、向って右の断簡はもと左頁、左の断簡は右頁だったものだ。すこし上下にずらして掛幅に仕立てている。もともと見開きでこんなことをしてたら筆者への冒瀆に他ならないが、そうではないので一手間加えているのだ。

ちなみに、継色紙には他にも、1頁に1首を書いたところもあれば、見開きに1首書くが、左頁に上句を書き右頁に下句を書くという返し書きをするものもある。

閑話休題。不思議なのは、なぜ渡り書きという奇妙に思える書き方をしているのかという点。どういう意図があるのか。もしくは、意図がないならば、なぜこのような書き方に抵抗がないのか、可能なのか。おそらく現代人が和歌1首を2頁に書いてくれと言われれば、よほどひねくれてない限り渡り書きをしないだろう。ページや冊子に対する考え方が異なるのではないかと想像させる。

この違和感を覚える書き方は、巻子本に書写する感覚に由来するのではないかと考えてみたが、どうだろうか。巻子本では紙の継目に関係なく連続して書写するのが普通だ。継目があるからといって、そこを区切りとして意識して意味上のまとまりをつけなければならないということはない。そして継ぎ紙を巻子本に仕立てずに蛇腹状に折り畳めば折本という一種の冊子本ができる。さらに言えば、継目で山折り料紙中央で谷折りして折本を作り、そこから継目を剥がして逆側を糊で綴じれば、粘葉装の出来上がり。しかも、巻子本は表側のみにしか書かれないので、継色紙と同じ内面書写となる。これはもちろん粘葉装内面書写の実際の作成のされかたを示したものではなく、思いの外両者は近いものであるということを示したかった。巻子本の料紙の継目をまたいで書くような感覚で、粘葉装のページをまたいで書いたんじゃないかと考えるわけだ。そこで重要な手がかりとなるのが、かつて「伝行成筆古今集切」と呼ばれていたもので、池田和臣さんによって「未詳ちらし歌切」と新たに命名されている遺品。もとさまざまな色の料紙を継いだ巻子本で、現在はわずかに6葉が残るのみだが、そのうち3葉が色変わりの継目をまたいで和歌が書写されているのである。

この「未詳ちらし歌切」は、うち1葉が炭素14年代測定にかけられ、西暦1000年前後の数字がでたという注目すべきものである*6。もちろん、測定の結果は無条件に信じるべきものだというわけでもないし、また料紙の年代と書写年代が離れる可能性もある。とはいえ、以前から書写年代は高野切以前の可能性もあるのではないかと推定もなされていたことを考えると、無視できるものではない。そして、この切の料紙や筆跡について近いものとして挙げられるのが、関戸本古今集と継色紙。「未詳ちらし歌切」との関連を考える上でも、そして継色紙の書写年代を考える上でも、渡り書きの五島断簡は貴重であると思う。

なお、継色紙にはある程度時代が下ると思わせる要素があることも合わせて書いておきたい。たとえば返し書きのものはページに対する意識の強さを思わせる。また、現存品は上句下句を分けているが、これも比較的新しい感覚のように見える。鎌倉時代以後は和歌を2行書きするとき上句1行下句1行にすることがほとんどであり、それは現代にも続くが、実は平安古筆はそういうのをあまり気にしない。12世紀半ばころから意識されるようになってくるようで、厳密なのは藤原教長あたりがその先駆け。とすると、継色紙も上句と下句を分ける意識から書写年代も下げた方がいいのだろうか。しかし、行書きとちらし書きには差があるのかもしれないと今は考えておく。つまり、和歌の行書きの変化は行に対する意識の変化故だと。

寸松庵色紙

もとは粘葉装冊子本で、古今集の四季歌(詞書を除く)を書写したと考えられるもの。料紙は宋製の舶載唐紙で、和歌1首を1頁に散らし書きする。

唐紙は胡粉地に文様を雲母刷りしたもので、初めは中国から輸入していたが、のちに日本でも作られた。日本で作られた和製唐紙の特徴の1つは文様を両面刷りするものがあること。片面のみのもあるが、両面刷っていれば和製唐紙。つまり、舶載唐紙は片面刷りしかないということだ。寸松庵色紙の現存品にはすべて雲母刷り文様がある*7。つまり、表側にのみ書写している。粘葉装で表側しか使わないとなれば、継色紙とおなじで内面書写ということになるだろう。注記にリンクを貼った論文では内面書写だと明言されているが、ほかの解説であまり見かけないので、念のため書いておく。

舶載唐紙には、傷みやすいという特徴もある。胡粉がはがれ落ちやすく、その上に乗る雲母や墨ごと失われてしまうため、状態のよくないものが多い。寸松庵色紙も例に漏れず、雲母刷りの文様が判然としなかったり、文字も読みづらくなっていたり、さらには補筆をしているものまである。そのなかで五島断簡(掛幅装)は状態のよさが目を引く。雲母刷りの西瓜文様ははっきりしているし、文字も読みやすい。

更に言うと、五島美術館は展示の仕方がいいのだ。いい状態のものでも壁にかけては文様は見ることはできないだろうし、文字を読むのも難しい。しかし、ここでは掛幅をのぞきケースに寝かせて展示するという手法をとることがある。はじめてこの展示法で寸松庵色紙を見たときの印象は忘れがたい。輝かしい西瓜文様に目のくらむ思いがしたのだった。雲母刷りの本来の力を引き出す展示法は素晴らしいし、またそれに応えるだけの状態を保持した断簡でもあるのだ。

掛幅を寝かして展示するのは邪道だという意見もあるかもしれない。しかし、寸松庵色紙をふくめ古筆はもともと本なのである。壁にかけて本を読む人はいない。手に持ったり、机の上において読むものだ。その角度や距離で見たときに、筆跡も料紙装飾ももっとも美しいはず。つまり、掛幅装の古筆をのぞきケースに寝かせて展示するのは邪道どころか、もっとも正しい展示手法だと言ってもいいのではないかと思う。

さらによく見ると、布目のようなものがあることに気づくと思う。これは布目打ちという技法による装飾で、紙を漉いて乾かす前に布を押し付けて布目を写し取る技法らしい。それによって見た目に布っぽい感じがでている。書の支持体で代表的なのは紙と絹布。おそらく絹布のほうが格が上という意識があったのではないか。そのため紙を絹布に似せる布目打ちが行われた。雲母刷りも同様で、これは綾織を意識しているのではないかと思う。布目打ちが用いられるのは唐紙が多いような気がするが、それは唐紙が綾織で文様を織りだした絹布を目指しているからなのだろう。

升色紙

深養父集の断簡でもと冊子本。現存品はすべて切断され1頁ごとになっている。もともとの冊子本の綴じ方がはっきりしないが、綴葉装(列帖装)だろうか。1首を1頁に散らし書きにするのが通例。

五島断簡(掛幅装)の料紙は藍の漉き染め紙に雲母砂子を撒いたもの。雲母刷り同様、壁面ケースに掛けての展示だと雲母砂子は見づらいので、ここでものぞきケースでの展示が威力を発揮する(高野切もおなじく)。一部雲母砂子が見て取れない箇所があったような気がするが、破損して補筆したというようなことがあったのかもしれない。所詮はガラス越しに見ているのだけなので、確信は持てないけれども。

漉き染めとは、紙を漉くときに最後に薄く藍染めされた紙素で漉き上げる技法。部分的に行うと雲紙になるものだが、全体的に均一に行うとこの料紙のようになる。地紙が少し黄味を帯びていて、薄く藍をかけると全体的に緑色を呈する。藍の紙素を厚めにすくうと薄い藍色になる。当時はよく使われた技法で、遺品も多い。と書いたところで、とある資料を確認したら、五島断簡の料紙は素紙に雲母砂子撒きと書かれていた。漉き紙だと記憶していたが、どうなんだろうか。次に展示された機会に確認してみよう。

五島断簡のちらし方は比較的穏当なもので、重ね書きをしたり返し書きをしたりと、もっと派手な遺品もあるなかでは、わりと普通な感じがする。しかし、歌の頭に記された「古」の文字がうれしい。これは所収勅撰集を注記した集付けで、定家によるものと考えられている。

新古今集の撰者の1人であり新勅撰集の単独撰者であった定家は、勅撰集編纂の資料のため、歌集を集めたり新たに書写したりさせたりして、私家集を中心とした歌集の一大コレクションを形成していた。そして、勅撰集は重複を避けるため、既出のものに印をつけていた。升色紙に見られる「古」の字もこの集付で、古今集に収録されているためもう勅撰集には採れないよという意味。つまり、この升色紙(の切断される前の冊子本)は定家が持っていた本だということになる。

定家などという有名人が出てくると、眉に唾をつけたくなるのが人情というもの。しかし、実はそれほど疑う必要のないものだったりする。というのも、定家が所蔵していた本はほかにも数多く残っているのだから。それは子孫の冷泉家が守り伝えたもの。近世にだいぶ流出していると思われ、巷間にあるものも冷泉家伝来のものが多いのだろう。升色紙も、冷泉家伝来品だと考えれば、さかのぼって定家手沢本だと考えることに無理はないのだ。そしてこの升色紙と定家を結びつけるのが、五島断簡などにある集付の文字なのである。

石山切と岡寺切

石山切は、本願寺本三十六人集のうち伊勢集と貫之集下の断簡で、1929年に切断分割されたもの。数多く伝存することもあり、またそれぞれ特徴もあるので、できれば両方所蔵している方が望ましいが、残念ながら五島美術館には伊勢集1葉しか存在しない(掛幅装)。しかし、代りと言っては何だが岡寺切が2葉ある(手鑑「筆陳毫戦」、鴻池家旧蔵手鑑に各1葉づつ)。

本願寺本三十六人集のうち2帖を切断するにあたって、伊勢集と貫之集下が選ばれたのは、それぞれ料紙と筆跡が主な理由だろう。もちろん伊勢集の筆跡も貫之集下の料紙もすばらしいが、継ぎ紙が多いからこそ伊勢集が選ばれたし、藤原定信の筆跡だからこそ貫之集下が選ばれた。とはいえ定信は順集と中務集も担当しており、なぜそれらではないのかはわからない。分量の問題だろうか。

そう、定信は貫之集下だけでなく順集も書いているのだ。そしてこの順集は江戸時代に一部抜き取られており、断簡として伝存している。継ぎ紙のものとそうでないものがあり、前者を糟色紙、後者を岡寺切という。五島美術館が所蔵している2葉(茶の染紙に銀泥下絵、連続する)も、この順集の断簡なのである。石山切貫之集下の欠落を補うのに十分だろう。

石山切の方に話を移そう。五島断簡の特徴を1つあげるとするならば、2頁分あるということだろう。連続する2葉で、もと見開きだったもの。古筆は1頁ごとに伝来することが多く、石山切も例に漏れない。高価だからか。他の美術館などで目にする石山切は、数幅同時に掛かっていても1頁分のみのものが多い。見開き2頁の断簡を所蔵しているというところはさすが五島美術館だ。

とはいえ、料紙の裏面であるというのは少し残念な気もしないではない。料紙装飾は表面の方が映えるので。五島断簡の右頁は破れ継ぎとわずかに重ね継ぎのある継ぎ紙(裏面)で、左頁は片面刷りの唐紙の裏面で(つまりこの面には雲母刷り文様はない)、胡粉地に銀泥下絵。特に左頁は装飾がすくなくさみしい感じがある。しかし、なぜ数少ない2頁分の遺品なのにも関わらず、表側ではなく裏側なのか。見開き2頁の他のを確認すると、表のもあれば裏のもあって、あえて裏側を選ぶという選択肢もあったようだ。想像するに、表面は1枚の料紙であり、装飾は連続するが、変化がないのでおもしろみに欠けるという考えもあったか。一方、裏面は左右で料紙が異なり、つまり料紙装飾が異なる場合がおおく、それによって変化を付けられるということがあるのだろう。にしても、もっと見栄えのする2枚はあったような気がする。北村美術館の破れ継ぎ/切り継ぎのセットや和泉市久保惣記念美術館の両面刷り唐紙/切り継ぎのセットのように。まあ、控えめなところがいいということなのかもしれない。

なお、五島断簡にもある重ね継ぎについて1つ疑問がある。古筆切は相剥ぎという工程を経る。つまり表裏を剥がして2枚に分けるのだけれども、重ね継ぎの部分は薄様を用いているので相剥ぎできない。にもかかわらず、表裏ともに重ね継ぎが残っているのはどういうことなのだろうか。おそらく、どちらかが新たに作った紙で補完しているのではないかと思われる。そしてそれは裏面である可能性が高いのではないか。

もう1点。破り継ぎについて、紙を破って貼り合わせるというような解説を目にすることがある。切断面を同じ曲線にして継ぐ技法なので、破るなどという粗雑な手法では不可能であり、当然小刀で切断しているはずだ。名称に引きずられすぎだとも言えるが、そもそも名称がおかしいような気もする。

小倉色紙

小倉色紙とは、百人一首歌の歌のみが1首4行に書かれた色紙で、50枚程度が伝存する。料紙は装飾されたものもあれば、反故紙と思しいものも。筆跡は定家風。宇都宮頼綱が嵯峨中院山荘の障子を飾るために定家に作成を依頼したものだという。

しかし、この小倉色紙はかなり怪しげなもので、その多くは定家の真筆とは考えられず、後世の贋作だという見解もある。さらに言えば、百人一首の撰者は定家ではないのではないかとか、山荘の障子を飾るのに色紙100枚は多すぎるとか、小倉色紙にまつわる問題がいくつか指摘できる中で、わずか5枚ながら定家真筆と考えることのできるものが存在する。「こひすてふ」「あひみての」「たちわかれ」「しのふれと」「さひしさに」の5葉。このうち「こひすてふ」は徳川美術館蔵、「あひみての」は五島美術館蔵、ほかの所蔵は不明。偽物が多いと思われる小倉色紙の中に、わずかに存在する定家真筆と考えられるものを五島美術館は所蔵しているわけだ。

しかし、この五島断簡などは、定家真筆だったとしても嵯峨中院山荘の障子を飾った色紙そのものだとは考えられない。というのも、これらは手控えか下書きのようなものだったと考えられるから。そんなものが何故残ったのか疑問に思う向きもあろうが、升色紙の項に書いたように、定家はその子孫が典籍や文書、記録を伝えている。定家が廃棄しなければ、むしろ子孫は積極的に保存しそうであり、一部が残ることになんら不思議はない。

一方、清書の小倉色紙は現存するのだろうか。下書きなどと考えられる真筆5枚以外は、後世に捏造されたものと思われるが、そのなかにひょっとしたら嵯峨中院山荘を飾ったものがあるかもしれない。たぶん無いだろうけれども。

以上の話は田渕句美子さんの研究に基づくが、それにまつわる講演の動画が公開され、紹介しやすくなったのはありがたい。

主題は、小倉百人一首は定家撰ではないこと、定家が撰んだのは百人秀歌で、のちに別人によって改作されたのが百人一首だという話。かなり説得力がある説だと思う。なお、ここで小倉色紙に関する認識は、名児耶明さんの研究に負っている。長いこと五島美術館に勤めていた書跡の専門家で、かつて「定家様」という展覧会を成功された実績もあるとのこと。

定家はかなり癖のある字を書く人だけれども、その筆跡を目にするとやはり上手いし魅力的だと思う。この前、松濤美術館で見た奈良博所蔵の明月記の断簡は素晴らしかった。冷泉家が守り伝えたことで、定家の筆跡は大量に残ってちる。もちろん、それぞれについて定家の真筆なのか、周辺の人が似せて書いたのかなどの判別が難しいという面もあるけれど。さらに、いわゆる書家ではないので、残るのは日記だったり歌集の転写本だったりで、書作品に当たるようなものは基本的に書いていない。

例外なのが小倉色紙。和歌1首を方形の色紙形に書き記すために、芸術性とでも言うべきものがより意識されているはずだ。実際に残っているのは清書ではないとはいえ、大量に残る定家の筆跡のなかでも特殊な位置を占めるものと言っていい。五島美術館が所蔵しているものは、単なる定家の真筆(それだけで十分価値がある)という以上のものなのである。

以下、余談。百人一首が定家撰でないという説は、十分な説得力を持つと思うが、1つだけ気になることがなくはない。つまり、いつ誰が百人秀歌を改作し百人一首に昇華したのかということ。細かい変化は段階的に行われた可能性があるが、それはさておき、決定的な変更を行ったのは誰なのか。

百人一首は江戸時代以降大いに広まり、日本人の美意識の形成に一役買い、またカルタ遊びも生まれ、現代に至って競技化されるなど、かなり浸透したものだが、百人秀歌のままだとしたらここまで広まらなかったのではないかと思われる。わずかな改作であるが決定的な変更でもあった。日本の古典文学史上、定家は屈指の編集者であると言えるが、その定家撰の百人秀歌の問題点を見抜き、最低限の手直しで百人一首という日本文学史上もっとも重要な作品の1つに作り変えた人物がいるのだ。天才なのでは。動画の中で百人一首に関する新刊が予告されていたけど、この辺りの話が出るか期待している。

*1:高知県高知城博物館蔵

*2:湯木美術館蔵

*3:伝公任筆本

*4:個人蔵

*5:公益財団法人防府毛利報公会蔵

*6:中央大学学術リポジトリ

*7:寸松庵色紙の伝存点数および改竄の一端