井田進也校注『幕末維新パリ見聞記』(岩波文庫)の注などに関する疑問いくつか

成島柳北の「航西日乗」と栗本鋤雲の「暁窓追録」を収めた『幕末維新パリ見聞記』(岩波文庫、2009年)というのを読みました。校注は井田進也という人。中江兆民の研究を中心にされていた方のようです。2016年没。

基本的にこの本の注はいいもので、柳北の方はパリやイタリア各都市における訪問先の比定が助かるし、鋤雲のかなり難解な語彙は注なしでは読むのはきつかったと思います。しかし、ところどころ信じがたいミスや程度の低いおかしなものが混じっているんですね。校注者やそれを手伝った人の問題もあるとは思いますが、それ以上に編集者の杜撰な仕事が気になります。というわけで、目についたものを挙げました。注以外にも、読み下しとルビの指摘もあります。

以下、疑問のある部分を本文と注をあわせて引用しています。行頭*の後に引いたのが該当箇所の注。引用の際、ルビは省略しました。ただしルビに問題があるものについては()内に入れて示しています。

航西日乗

明治五年壬申の*九月(p.9)
*壬申 みずのえさる。五行を甲・乙のように兄(え)と弟(と)に分けた十干と十二支を組み合わせた暦年の数え方。明治五(一八七二)が壬申の年に当たる。(p.181)

この注は特に問題があるわけではないのですが、この本の最初の注がこれであるという点から取り上げていいかと思いました。成島柳北の「航西日乗」を読もうとする人に干支の説明が必要と考えるセンスのなさ。この時点で、すこし警戒をしました。

馭者曰く、是れボウガハアの寺*なり。(p.28)
*ボウガハアノの寺 島の中央部にある世界遺産ポロンナルワ(Polommaruwa)の仏教遺産(p.185)

柳北一行は、スマトラ島ゴール港で「ボウガハアノの寺」なる寺に寄っています。日帰りの訪問。この寺を注では世界遺産ポロンナルワと認定していますが、直線距離にして200km以上あるところに日帰りで行けるとは思えず、また日乗の記述からそのような長距離旅行をしたようには見えません。ゴール港近傍の寺でしょう。

人定連房灯影残 人定りて、連房灯影残す。(p.39)

凡例によると、底本では漢詩が漢文で、校注者が「読み下し文を添えた」とのこと。この「人定」は人が寝静まる時刻を意味すると思われ、「人定りて」と読むのは違和感があります。

今朝甲板より望めば、右にはエルバ島を望み*、左にはコルシカ嶋を瞻る。(p.40)
*右にはエルバ島を望み 通常ポート・サイドを出たフランス郵船は、イタリア半島シチリア島の間のメッシナ海峡、次いでコルシカ島サルディニア島の間のボニファチョ海峡を抜けて一路マルセイユへ直行するのだが、この船はコルシカ島を右回りに迂回してマルセイユを目指したようである。(p.187)

エルバ島コルシカ島の間を南から北へ抜けてマルセイユに行く場合、コルシカ島は「左回り」するのであって、「右回り」ではありません。

唱出東京旧竹枝 唱へ出だす、東京の旧竹枝*。(p.57)
*竹枝 男女間の愛情や土地の風俗などを題材にした唐代の歌。ここでは江戸時代以来の都々逸の類だろう。(p.197)

異郷パリで新年を迎えたときの詩の一節。江戸後期から明治前期にかけて流行した、日本における竹枝についてまったく無視しているのは不可解です。柳北自身も作っていたはず。

哂彼驪山錮九泉 哂ふ、彼の驪山に九泉*を錮すを。(p.59)
*驪山 唐の都長安に近い驪山には温泉があって温泉宮が作られていた。(p202)

ナポレオンの廟を訪問した折の詩の一節です。とすればこの「驪山」は始皇帝陵を指すと考えるのがいいように思います。「九泉」はあの世の意。「温泉があって云々」は玄宗楊貴妃を想起させますが、ここでは関係ないでしょう。そもそも温泉というのが唐突な感じがあります。ひょっとしたら「九泉」という字面から温泉を思いついたのかもしれません。

加非店*に憩ふ。其卓椅多く石を以て造る。(p.92)
*加非店 北側回廊中ほどで現在も営業しているカフェ・フロリアン(Florian)(以下略)(p.220)

ヴェネツィアサンマルコ広場にあるカフェ・フローリアンは「南側」の回廊であって、「北側」ではありません。フローリアンからは50年ほど遅れるものの、これまた歴史のあるカッフェ・クアードリとの混同でしょうか。こちらは「北側」の回廊にあります。

暁窓追録

明治己巳(こし)三月(p.140)

底本で干支にルビがついていたと思えませんし、また凡例によると「新たに新かなづかいのルビを付した」とのこと。ひょっとしたら「こし」という読みもあるのかもしれませんが、新たにつけるなら一般的なものを使うべきでしょう。

歴山港には烏鴉多く有り、皆白頭なり。燕丹の事*、深く奇とするに足らず。(p.171)
*燕丹の事 燕の太子丹が秦の始皇帝に刺客を放とうとしたときに、白色の虹が太陽の面を突き通す異変が起こったという故事(『史記』「鄒陽伝」)。(p.258)

ここで挙げるべき故事はもちろん烏頭馬角です。

政府又検屍場*・投売場*二区の設けあり。(p.175)
*検屍場(以下略)
*動産公売場 ロッシーニ街を挟んで、旧オペラ座の斜向かい、ドゥルオー街の角にある動産公売所(以下略)(p.261)

本文と注の見出しが異なるという、信じがたいミス。

「東行記」翻刻・校訂

 烏丸光広筆「東行記」(東京国立博物館蔵)の翻刻本文と校訂本文です。翻刻にあたりColBase掲載の画像を使用しました。
 「東行記」には同じく光広筆の別本が京都国立博物館に所蔵されています。草稿本と考えられますが、異なる部分もあります。こちらもColBaseに画像が掲載されており参照しました。ただし、画像は一部しか載っていません。
 翻刻は、助広倫子さんの「「東行記」釈文〔烏丸光栄写との対校〕」(国立国会図書館サーチ)をおおいに参考にしました。対校につかわれた光栄写本とは京博本に酷似するもので、こちらも利用しています。
 翻刻本文。字詰めは無視し、和歌は改行2字下げにしています。()内は傍書。
 校訂本文。訓点や濁点を附し、かなを漢字に漢字をかなに適宜あらため、脱衍を補ったり削ったりなどをしました。また和歌に通し番号を附しています。
 翻刻には誤りもあると思いますので、ご利用のさいはお気をつけください。また、意味がとれず校訂が不十分なところもあります。11番歌22番歌など。ご教示いただければさいわいです。

翻刻本文

都を出てあふ坂の関にいたり瀬田の長橋うちわたりてよめる
  しるしらぬ会とひかはす旅人の行とくるとにあふ坂の関
  あふみる瀬田の長橋なかゝれとおもふ(ひ)そめたる君が代のとき
なを行程に草津いしへの里土山をすきて鈴鹿山を行に伊勢の海ちかくちかく見えわたり八十瀬の浪に猶袖しほり旅衣のはる/\行かたは関の地蔵とかや四日市といふ所をなん打過て
  聲しきる八十瀬の浪はきゝいつるすゝかの山の雪そありける
いせの国桒名にとゝまり渡海七里夜をこめことさはかしく各舟にとりのり行程にたく火のかけほのかに浪のうへに見え侍りみな人それはほし崎とやらんいふをきゝて
  影もたゝ幽に見て浪の上にたく火はよるのほし崎の山
夜明もて行ほとに北のかたになこやの城も見え侍りそれより尾張のあつたのみやにつきしかは神のゐかきの跡とめて見え侍しにある人櫻花ちりなんのちのかたえには松にかゝれる藤をたのまむといへるは此神の詠吟なりとかたりあへる
  咲花にあけのゐかきをこえぬとも見まくほしさは神もいさめし
ひるの程しはし宮にやすらひて道はる/\行すきけるを煙しき寺ありけるをとひ侍けるにこれはかさ寺といへりけれはたちより見侍りて
  行人もきて見よかしとかさてらに雨のふる日をたよりにそまつ
とよみてなるみ野を行になきさにあまる田靏のこゑを聞侍りて
  風吹は音になるみの浪間より明るなきさにたつそなくなる
猶ゆき/\て三河の国にうつり八はしを見侍るへきとてたつね行にそのあとしもなしそこの里人にとひ侍りけるにもいつこをそれといふへきしるしともなく田のかしこにありて桧木の柱ともなきものなとをこれなん八橋なりといひけれは
  とはれてもなにを三河の八橋とことふる事をかきつはたかな
八橋を見給ひてふりちりうの里へはるかに出給ふにいとまつしけにいゑ居とわつかにやとり給ふへき所もおほへさりけれともわりなく一夜をとゝまりちりうといふ名をたいにて
  秋過て春にもなれはこのさとに米いちりうももたぬ民哉
明行道すから罡崎の城をすき大ひら川を打わたり吉田に一夜とゝまりて濱なのはしも近くなるしほ見坂を越行けれは南海まん/\と見えわたりけるに
  あしひきの山路越てしほみ坂南の海のいかてもしられす
浪のうつまさこの数をひろひつゝはまなの橋とたれかいひけん
猶ゆく程にしらすかと云所を過侍りて浪もあらひの濱より舩に乗まひ坂と云所にあかり濱枩風の音きく里に一夜をあかしかけ川の城を過新坂の麓のやとり各駒の足やすめやすらひけるに所の名物なりとて蕨をしたゝめたる物なと出しけるに新坂をしゆやうさんと云へきにやわらひを朝暮もちひぬる里人はくいしゆくせひにや成侍るらんなとたはむれける
  新坂をこえんと足をやすめをく宿にわらひわらひのもちつきの駒
とたはむれつゝ小夜中山を越行に西行法師の命なりけりとよみしもこゝにやと昔をしのふもよほされて
  いにしへをおもひそ出る年たけてこえし道ある小夜の中山
と讀嶋田を過行大井川を打わたりぬるに都におなし名さへ聴まほしくおほえ侍る
  いとはしな浪かけぬとも大井川同じ名におふ都なりせは
と打詠めて行日数程へて藤枝につきしかは一夜をとゝまり明て行程にうつの山にいたりぬるにつたのほそ道越し昔の人の現も夢に成ぬるよとおもひ侍りて
  こえしその人をむかしのうつの山うつゝも夢になりて過けん
するかの苻中にちかつきしかはしはしとゝまり給ひそれよりゑ尻と云所を過行給ひて三保松原清見寺にいたり給て見給ふにうしろの山そひへて諸木えたをましへ岩尾の瀧をち池ふりて庭前の櫻花色香ことなり浦のけしきはしつかにして入海の浪こまやかにかすむあなたは三保の枩原ゆふ日のかけうしほにうつろひ沖行舟かすかにそれかあらぬかとうたかはるゝに帰る鳫の聲するをりしも三日月のかけかたふき鐘の響も長閑なるよそほひまことに心もことはもおよひかたき春の夜の一時をおしみしをけに此おりにやとめて給ひこのまゝ酒すゝめ興し
  清見かた関守人はなけれとも浦のなかめにたひとまりけり
西になる日は入海をへたてつゝかすむひまよりみほの松原
清見寺の鐘も暁ちかくつきわたるおりしもたち出行ほとに冨士の根も雲よりうへはいさしらすみえぬるほとにいとたかふしてみる/\行は時しらぬ雪のはたへしろたへにかすみのころもたなひきかゝるあしたか山を見やりかむ原とやらんをはる/\と舩よはふ冨士のすそ野を日も暮かたに打わたり夜半にや行かむよみしうき嶋かはらを行過侍り
  冨士の根の雪こそ時はしらすともかすむそ春の明ほのゝ空
  見わたせはふし■(の)すそ野を行雲のあしたか山の嶺にかゝれり
  するかなるふしの高ねの音にそへて何うきことのうき嶋か原
伊豆の三嶋にいたり神殿を拝したてまつり其日はとゝまり夜もやう/\明る箱根山を越行にあしたか(の)のけしきいとしつかなりしかともさすか深山なれは風はたさむく春のうす雲ちりくるも木すゑの花かともうたかはるゝにめてつゝ行に四方の山かきくもりかせいと物さはかしく成もて行ほとに雪しきりにふりつゝ駒のあしなみ行かたもおちつかま(な)く打つれ行人もひとり/\になり箱根の里まてまとひきつゝ日もまた暮やらぬも雪を山路の関の戸さしとさゝへふれしかは其日ははこねの里にとゝまりてたく火のもとによりけふのうさなとかたりあへる
  箱根山はるともいさやしら雪のみちふりかくし行かたそなき
さてそれよりさかみの国菊川の宿をなん見侍りける
むかしよりかはらてこゝにすむ水のをときく川の末はたゝせし
それより小磯大磯藤沢とつかほとかやかたひらの宿よりかな川とやらんに打過手をゝりてかそふれは三月十一日に江戸へなんつき侍りぬる

校訂本文

都をいでて逢坂の関にいたり、瀬田の長橋うちわたりてよめる
  01しるしらぬ会ひ問ひかはす旅人のゆくとくるとに逢坂の関
  02近江なる瀬田の長橋ながかれとおもひそめたる君が代のとき
なほ行くほどに、草津・石部の里・土山をすぎて鈴鹿山を行くに、伊勢の海ちかく見えわたり、八十瀬の浪になほ袖しぼり、旅衣のはるばる行くかたは関の地蔵とかや。四日市といふ所をなんうち過ぎて
  03声しきる八十瀬の浪は聞きいづる鈴鹿の山の雪にぞありける
伊勢の国桑名にとどまり、渡海七里夜をこめこと騒がしく、各舟にとりのり行くほどに、たく火の影ほのかに浪の上に見えはべり。みな人「それは星崎とやらん」いふを聞きて
  04影もただかすかに見えて浪の上にたく火は夜の星崎の山
夜明もて行くほどに、北のかたに名古屋の城も見えはべり。それより尾張の熱田の宮につきしかば、神の斎垣の跡とめて見えはべりしに、ある人「「桜花ちりなんのちのかた枝には松にかかれる藤をたのまむ」といへるはこの神の詠吟なり」とかたりあへる
  05さく花に朱の斎垣をこえぬとも見まくほしさは神もいさめし
昼のほどしばし宮にやすらひて、道はるばる行きすぎけるを、煙しき寺ありけるを問ひはべりけるに、「これは笠寺」といへりければたちより見はべりて
  06ゆく人もきて見よかしと笠寺に雨のふる日をたよりにぞまつ
とよみて、鳴海野を行くに、渚にあまる田鶴の声を聞きはべりて
  07風吹けば音に鳴海の浪間よりあくる渚に田鶴ぞなくなる
なほ行きゆきて三河の国にうつり、八橋を見はべるべきとてたづね行くに、そのあとしもなし。そこの里人にとひはべりけるにも、いづこをそれといふべきしるしともなく、田のかしこにありて桧木の柱ともなきものなどを「これなん八橋なり」といひければ
  08とはれてもなにを三河の八橋とこたふる事をかきつばたかな
八橋を見たまひて、知立の里へはるかに出でたまふに、いと貧しげに家居もわづかに、やどりたまふべきところもおぼへざりけれども、わりなく一夜をとどまり、知立といふ名を題にて
  09秋すぎて春にもなればこの里に米いちりう(一粒/知立)ももたぬ民かな
あけゆく道すがら、岡崎の城をすぎ大平川をうちわたり吉田に一夜とどまりて浜名の橋も近くなる潮見坂をこえ行きければ、南海漫漫と見えわたりけるに
  10あしびきの山路こえきて潮見坂南の海のいかでもしられず
  11浪のうつ真砂の数をひろひつつ浜名の橋と誰かいひけん
なほゆくほどに、白須賀といふところをすぎはべりて、浪も新居の浜より船にのり、舞阪といふところにあがり、浜松風の音きく里に一夜をあかし、掛川の城をすぎ、新坂の麓のやどり、各駒の足やすめやすらひけるに、所の名物なりとて蕨をしたためたる物など出しけるに、「新坂を首陽山といふべきにや、蕨を朝暮もちゐぬる里人伯夷・叔斉にやなりはべるらん」などたはむれける
  12新坂をこえんと足をやすめをく宿にわらびの望月の駒
とたはむれつつ、小夜の中山を越えゆくに、「西行法師の命なりけりとよみしもここにや」と昔をしのぶあはれもよほされて
  13いにしへをおもひぞ出づる年たけてこえし道ある小夜の中山
とよむ。嶋田をすぎゆき、大井川をうちわたりぬるに、都におなじ名さへ聴かまほしくおぼえはべる
  14いとはしな浪かけぬとも大井川おなじ名におふ都なりせば
とうちながめてゆく。日数ほどへて藤枝につきしかば、一夜をとどまりあけてゆくほどに、宇津の山にいたりぬるに、「蔦の細道こえし昔の人のうつつも夢になりぬるよ」とおもひはべりて
  15こえしその人をむかしの宇津の山うつつも夢になりてすぎけん
駿河の府中にちかづきしかば、しばしとどまりたまひ、それより江尻といふところをすぎ行きたまひて、三保松原清見寺にいたりたまひて見たまふに、うしろの山そびへて、諸木枝をまじへ、岩尾の瀧落ち、池ふりて、庭前の桜花色香ことなり、浦のけしきはしづかにして、入海の浪こまやかに、かすむあなたは三保の松原、夕日のかげ潮にうつろひ、沖ゆく舟かすかに、それかあらぬかとうたがはるるに、かへる雁の声するをりしも、三日月の影かたぶき鐘のひびきものどかなるよそほひ、まことに心もことばもおよびがたき春の夜の一時をおしみしを、「げにこの折にや」とめでたまひ、このまま酒すすめ興じ
  16清見潟関守人はなけれども浦のながめに旅とまりけり
  17西になる日は入海をへだてつつかすむひまより三保の松原
清見寺の鐘も暁ちかくつきわたるおりしも、たち出でゆくほどに富士の峰も雲より上はいざしらず、みえぬるほどにいと高うして見るみるゆくは、時しらぬ雪のはだへ白妙にかすみの衣たなびきかかる愛鷹山を見やり、蒲原とやらんをはるばると船よばふ富士の裾野を日も暮がたにうちわたり、夜半にや行かむよみし浮島が原をゆきすぎはべり
  18富士の峰の雪こそ時はしらずともかすむぞ春のあけぼのの空
  19見わたせば富士の裾野をゆく雲の愛鷹山の嶺にかかれり
  20するかなるふしの高ねの音にそへて何うきことのうき嶋か原
伊豆の三嶋にいたり神殿を拝したてまつり、その日はとどまり、夜もやうやうあくる。箱根山をこえゆくに、朝の景色いとしづかなりしかども、さすが深山なれば風はたさむく春のうす雲ちりくるも、木ずゑの花かともうたがはるるにめでつつゆくに、四方の山かきくもり風いとものさはがしくなりもてゆくほどに、雪しきりにふりつつ、駒のあしなみゆくかたもおちつかなく、うちつれゆく人もひとりひとりになり、箱根の里までまどひきつつ、日もまた暮やらぬも雪を山路の関の戸ざしとささへ降れしかば、その日は箱根の里にとどまりて、たく火のもとにより、けふのうさなどかたりあへる
  21箱根山春ともいさやしら雪のみちふりかくしゆくかたぞなき
さて、それより相模の国菊川の宿をなん見はべりける
  22むかしよりかはらでここにすむ水の音きく川の末はたたせし
それより小磯・大磯・藤沢・戸塚・保土ヶ谷・片平の宿より神奈川とやらんにうちすぎ、手を折りてかぞふれば三月十一日に江戸へなんつきはべりぬる

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白居易「読漢書」

【原文】
  讀漢書 唐·白居易
禾黍與稂莠 雨來同日滋 桃李與荆棘 霜降同夜萎
草木既區別 榮枯那等夷 茫茫天地意 無乃太無私
小人與君子 用置各有宜 奈何西漢末 忠邪竝信之
不然盡信忠 早絕邪臣窺 不然盡信邪 早使忠臣知
優游兩不斷 盛業日已衰 痛矣蕭京輩 終令陷禍機
每讀元成紀 憤憤令人悲
寄言爲國者 不得學天時 寄言爲臣者 可以鑒於斯

诗词 白居易 读汉书

【書き下し文】
  漢書を讀む 唐·白居易
禾黍と稂莠と、雨來れば同日に滋り、
桃李と荆棘と、霜降れば同夜に萎む。
草木既に區別するに 榮枯那ぞ等夷なる。
茫茫たり天地の意 乃ち太だ私無き無からんや。
小人と君子と、用置 各〻宜しき有り。
奈何ぞ西漢の末、忠邪竝びに之を信ずる。
然らずして盡く忠を信ぜば、早く邪臣の窺を絕たん。
然らずして盡く邪を信ぜば、早く忠臣をして知らしめん。
優游として兩つながら斷ぜず、盛業日〻已に衰ふ。
痛ましいかな蕭・京が輩、終に禍機に陷らしむ。
元・成の紀を讀む每に、憤憤として人をして悲しましむ。
言を寄す 國を爲むる者、天の時を學ぶを得ず。
言を寄す 臣たる者、以て斯に鑒みるべし。

※『新釈漢文大系97』に拠ります。

【大意】
 草木には(人間にとって)いいものとわるいものとあるけど、茂り枯れることに違いはない。いいものが茂り、わるいものが枯れればいいのだけれど、自然の心はわからん。私心がないのか。
 人間にも小人と君子とがあって、それぞれ登用したり放置したり、相応しい扱いがあるはずだ。にもかかわらず、西漢の末では忠臣と邪臣を共に信じてしまった。忠臣のみを信じていれば、邪臣の狙いを断つことができただろう。邪臣のみを信じていれば、忠臣が悟ることもできただろう。しかし、西漢は、はっきりしとた態度をとらないままに衰えていった。結果として、朝廷を見限ることの出来なかった忠臣の蕭望之と京房は無残な最期を遂げたのである。
 元帝紀と成帝紀を読むたびに、むかむかとして悲しい気持ちになる。天命を知ることなどできないことを西漢末の事例によって肝に銘じるべきであろうと君臣に伝えたい。

※「學天時」の意味が取りにくいなと思いました。ほかにもまずい点はあるかと思いますが、とりあえずこんな感じの詩のはず。

【備考】
 京都・建仁寺塔頭・霊洞院が所蔵、東博に寄託される重文「伏見天皇宸翰読漢書詩」はこの白居易詩を書いたものです。初めの3句がありませんが、書き落としたのでしょうか。それとも切断された? また下の翻刻で赤字にした部分が異なります。「侫」についてはそれほど自信はありません。「命」は「令」とあるべきところ。似ている字なので判断に迷いますが、やはり「命」としか読めませんでした。

 讀漢書
霜降同夜萎草木
既區別榮枯那等
夷茫〻天地意無乃
太無私小人與君子用
置各有宜奈何西漢
末忠邪竝信之不然
盡信忠早絕邪臣窺
不然盡邪早使忠
臣知優游兩不斷盛
業日已衰痛矣蕭京
輩終陷禍機每讀
元成紀憤〻令人悲寄
言爲國者不得學天
時言爲臣者可以鑒
於斯

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青磁輪花茶碗 銘《馬蝗絆》(東博蔵)についてのいくつかのこと

https://image.tnm.jp/image/1024/E0002038.jpg
E0002038 青磁茶碗 銘馬蝗絆 - 東京国立博物館 画像検索

馬蝗とは?

銘《馬蝗絆》は、一般的に鎹をイナゴに見立てた命名であるとされます。いくつかの解説を並べて細かく見ると「馬蝗」は大きなイナゴを指すとか、馬の背または尻尾にとまったイナゴの意味だなどと違いが見られますが、ともかくイナゴ説です。イナゴ説でない場合でみられるのは、「馬蝗」とは何かを指摘せずに解説されるケースでしょうか。例えば『大正名器鑑』第6編では「建築辞彙に、日本にて鎹をいふを支那にては馬蝗絆といふとあり」のように。

しかし、そもそも中国語で馬蝗はヒルを意味します。そして、馬蝗絆の馬蝗もヒルであるという主張があります。

岩田澄子「青磁茶碗『馬蝗絆』の語義について」(『茶の湯文化学会会報』No. 75、2012年、PDF)。

このなかで岩田さんは、馬蝗はヒルを意味しイナゴを意味しないこと、ぴったりとくっ付くという意味の慣用表現のひとつに比喩として馬蝗が使われているものがあるなどの理由から、馬蝗絆の馬蝗はヒルを意味すると主張されています。語義、形状、性質から考えて、馬蝗はヒルだと考えるのが妥当でしょう。

岩田さんによると、かつては馬蝗が何であるかという説明がなかったが、後にイナゴ説が出てきたようです。前者の例が1964年のもので、後者の例が1997年のもの。この30年ほどの間にイナゴ説が生まれ広まり、その後定着したのでしょうか。

イナゴ説を採ると困ったことが起きるんですね。蝗はイナゴなわけですが、馬をどう解釈していいかわからない。そこで馬にとまったと考えるのが1つ。馬の背であるとか馬の尻尾であるとか部位を特定する根拠は不明。いずれにせよ、この見立てだと青磁茶碗自体を馬に見立てることになりそうで、あまり感じ良くありません。

ならば馬蝗という種類のイナゴがいると考えればどうか。実際には存在しないのですが、もしいるとするならば馬で形容していることから大きそうな気がします。というわけで大きなイナゴに見立てたという説が生まれたのでしょうか。しかし、あの鎹を大きなイナゴに見立てるというのは無理がありそうです。なぜなら通常のサイズのイナゴより鎹は小さいのですから。

個人的には、イナゴに見立てているということ自体に強い違和感があったので、ヒルであるという説を聞いてすっきりしました。

寸法

歪みのない茶碗ではないので測る所によって数ミリの違いが出るのは理解できます。しかし、高さが9.6cmなのか6.5cm程度なのかは誤差では済まない違いなので、どちらかが間違えていると考えるしかありません。3つの寸法が一致する上の2つは共通する測定値を使っており、近い値をとりつつばらけている下3つの方が信用に値すると思います。自分で測れればはっきりしますが、そういうわけにもいかいきません。比較対象が近くにある画像で確認したいんですが、都合のいい画像はなかなか見当たらないものですね。タバコを添えた写真でもあると大きさがわかりやすくていいのですけれども。

その中で、悪くない写真を発見しました。昨年、北京の故宮博物院でこの馬蝗絆が展示されました。その展示作業中の写真が以下のリンク先に掲載されています。

www.artslifenews.com

指3本分より少し高さがあるという感じ。つまり6.5cmほどでいいと思います。他の写真での口径との比率からも裏付けられます。

ちなみに、この故宮での展示のときの素敵な写真を千宗屋さんがインスタグラムに投稿されています。

www.instagram.com

1枚目の写真好きです。故宮に馬蝗絆が似合いますね。なんだか妙に収まりの良さを感じます。自然光入れているというのも羨ましいところ。東博にも自然光を入れられる展示室があるといいなあと思ったり。

附属品の写真

国指定文化財等データベースには以下の附属品が挙げられています。見やすいように箇条書きにしました。

  • 一、内袋:表黄地雲鶴文金入錦、裏白唐草文緞子。緒つがり紅丸打紐。
  • 一、挽家:深被蓋造、黒呂色塗曲物、身の下縁に三ヵ所梅花形鍍銀金物、身内貼繻子地丸紋銀襴。
  • 一、挽家袋:表蘇芳地木入間道木綿、裏浅葱地柘榴梅文緞子、緒つがり花色。
  • 一、箱:被蓋造内貼銀砂子料紙。
  • 一、添状:馬煌絆茶甌記伊藤東涯筆 一巻。

最終行「馬煌絆」はママです。このうち挽家はe国宝などで見れますし、馬蝗絆茶甌記は東博画像検索で全文確認できます。しかし、こういった公式の所では内袋や挽家袋の画像が見当たりません。そこで、探してみると、以下のサイトに写真が載っていました。素性が不明ですが、おそらく東博あたりで展示されていた折に撮られたものではないかと思います。とすれば、探せば他にも写真を撮って上げている人がいるかもしれません。

kenagegumi.jugem.jp

馬蝗絆茶甌記

馬蝗絆の伝来などについて記した伊藤東涯の『馬蝗絆茶甌記』。上掲の岩田さんの論文では「ちゃおうき」とルビを振っています。九州国立博物館 | 九博メルマガでも「ちゃおうき」。私は「さおうき」で耳馴染んでいますが、これからは「ちゃおうき」読みが広まっていくのでしょうか。

それはさておき、先ほどもリンクを貼った東博画像検索で読むことができます。また大正名器鑑. 第6編 - 国立国会図書館デジタルコレクション翻刻されています。更に、板橋村だより:陶磁器(11)-青瓷盤口鳳耳瓶(南宋/龍泉窯)に読み下しが載っています。こちらで大正名器鑑の翻刻を一部修正できます。

至れり尽くせりで、私が補足するとすれば落款印くらいでしょうか。引首印は「玩易清課」、姓名印は「長胤之印」、雅号印は「元蔵」。

2つの伝承

馬蝗絆には2つの大きな伝承があります。1つは平重盛浙江省杭州の育王山に喜捨した返礼として仏照禅師から贈られたものであるというもの。もう1つは足利義政の手にあったころ、ひび割れが気になり明に代わりのものを求めて送ったところ、このような優品はもう製造できないと鎹で補修して送り返してきたというもの。

前者については、一見して作り話だなという感じがします。価値を高めるためか、単なる気まぐれか、平家物語の話と結びつけたのでしょう。e国宝の解説では「龍泉窯青磁の作風の変遷に照らして史実とは認めがたい」と、時代の不整合も指摘されています。

後者もあやしいですよね。作り話臭が強い。裏付けがない限りは信じるに値しない話だと思います。この話、馬蝗絆茶甌記以前に遡れないようなんですね(重盛説話も同様)。さすがに時代が離れすぎて信用できません。

もっと言うと、この馬蝗絆についての記述が、馬蝗絆茶甌記以前に存在しないようです。馬蝗絆の由緒 - なにがし庵日記では、東山御物である(つまり義政旧蔵である)こと自体を疑い、「馬蝗絆は突然江戸時代に現れた茶碗のように見える」とおっしゃった上で、これらの伝承は伊藤東涯が当時の所蔵者にたのまれでっちあげたのではないかと主張します。

永青文庫館長の竹内順一さんも同様の見解を示されています。

室町時代足利義政の手にあった際、ひびが入り、中国に送って替えを求めたが、勝るものは作れないと鎹止めされて送り返されたと伝える。だがこれは、江戸中期の知恵者・伊藤東涯のでっち上げた話。中国風の絶妙な命名もそう。実際は中国で割れた青磁が修理され、日本にもたらされたのだろう。

「完璧でないから愛される」 修理品に価値を認める日本独特の感性とは | 紡ぐプロジェクト

「伊藤東涯のでっち上げた話」と断定する根拠はわかりません。ただ作り話であるということ自体は、まあその通りなのでしょう。

最後の一文にも注目したいところです。日本で割れたのを中国で補修して日本に伝わったのではなく、中国にあったものが割れて補修された後に日本に渡ってきたという考えなんですね。正否は判断できませんが話はシンプルになりました。

e国宝の解説には「内側に緞子(どんす)を張った中国製の漆塗りの曲げ物に入れられており、何らかの特別な事由で中国から運ばれた茶碗であることは確実である」とあって、ここらへんから渡来時期の推定ができないのかなと思ったりします。

ひび割れの原因

このひびを見ると、寒い時期にいきなり熱いお湯を入れてひび割れたように思います。

コラム/目利きのイチオシコレクション-朝日マリオン・コム-

上で写真を紹介した千宗屋さんの解説です。

遠州への献茶

ご先代の紅心宗匠が昭和25(1950)年3月19日に
「宗慶」の号の襲名披露茶会の折、
遠州公にお茶を献じる際使用されました。
宗匠とご縁の深かった室町の三井高大氏の旧蔵で

馬蝗絆(ばこうはん) – 遠州流茶道

当時は三井高大(1908-1969)所蔵で、没後東博に寄贈したようです。

もう1つの馬蝗絆 銘《鎹》

馬蝗絆青磁に非常によく似たものがあります。マスプロ美術館所蔵の青磁花茶碗 銘《鎹》。同じ龍泉窯の青磁花茶碗で、同じくひびが入り鎹で補修されています。ただしひびは1か所で鎹は3つです。

公式サイトの解説では、馬蝗絆とセットだったとして重盛伝承と義政伝承を附会しており、かえってあやしい感じを醸し出していますが、ものは確かなようです。2008年には徳川美術館の「室町将軍家の至宝を探る」展で馬蝗絆と並べて展示され、2016年には東京国立博物館平成館の「禅―心をかたちに―」展で、(こちらはなぜか)単独で出品されています。記者発表では九条館で並べていたようですね。

www.tnm.jp

『大正名器鑑』では馬蝗絆の項に参考として『茶道正傳集』の記述を引いています。

鉸茶碗と云て名物茶筌置有、但青磁の茶碗なり、大きなるひゞき一つ有、其所に外より鉸を二所かけたる茶碗也、但鉸は真鍮也元は医師道三所持、後織田三五郎所有に有之、今何れに有とも不知也。

附属品がはっきりしませんが、「織田三五郎の書、有楽の箱書き、愈好斎の由来書がついている」(青磁輪花茶碗「馬蝗絆(ばこうはん)」 - 宗恵の「一期一会」)ようです。

 これと全く同じものが「鎹」(マスプロ美術館所蔵)で、『清玩名物記』(1555)に十四点記載されているが、残りはすべて「本能寺の変」で失われた。

「馬蝗絆」 : fumi1202のブログ

この記述がよくわかりません。

鎹で補修された陶磁器は他にも

朝倉氏の本拠・一乗谷の遺跡からは馬蝗絆のように鎹で修理されたとみられる陶磁器が出土している。これは同遺跡から出土した百五十万点の陶磁器の中でも、中国河北省定窯で焼かれた12世紀頃の瓜型と輪花型の鉢、14世紀の青磁の下蕪の花生と片口という四点のみにみられる。

茶碗「馬蝗絆」|戦国日本の津々浦々

興味深い記述です。参考文献として「小野正敏 『戦国城下町の考古学 一乗谷からのメッセージ』 講談社 1997」が挙げられていました。機会があれば読んでみようかと思います。