留魂詩碑、建碑記、追慕碑(東京都大田区洗足池)

南洲留魂詩碑

翻刻
朝蒙恩遇夕焚阬人生浮沈
似晦明縦不回光葵向日若
開運意推誠洛陽知己皆為
鬼南嶼俘囚独窃生生死何
疑天付与願留魂魄護
皇城 無 獄中有感南洲

(碑陰)
慶應戊辰之春君率大兵東下人心鼎沸市民荷擔
我憂之寄一書於屯営君容之更下令戒兵士驕激不使
府下百萬生霊陷塗炭是何等襟懐何等信義
君已逝矣偶見往時所書之詩気韻高爽筆墨淋
漓恍如視其平生欽慕之情不能自止刻石以為
紀念碑嗚呼君能知我而知君亦莫若我地
下若有知其将掀髯一笑乎
明治十二年六月 海舟勝安芳  廣羣鶴鐫

【年月】明治12年6月
【作詩・撰文】西郷隆盛/(碑陰)勝海舟
【染筆】西郷隆盛/(碑陰)勝海舟
【石工】広群鶴
【所在】洗足池公園(東京都大田区南千束
【概要】
明治10年西南戦争に没した西郷隆盛を追慕し勝海舟が建てた碑で、西郷の自作自筆の詩を写したもの。詩は沖永良部島の獄中にあったときの作だが、書写は後年か。原蹟は大久保利通旧蔵で当時は勝所蔵の由*1。現存するかは確認できず。豪快な筆跡を彷彿とさせる見事な彫り。碑陰は勝による由来記。西郷に対する思いのあまりの建碑であって、その心情が吐露される。碑は当初葛飾区木下川の薬王院浄光寺にあったが、大正2年に移設された。詩の最後に添えられた「無」は詩中の脱字。
【疑問】

  • 碑陰3行目最後の字「全」に見えるが、しっくりこず
  • 碑陰最後「安芳誌」の「誌」字、写真ピンボケなのもあり、自信なし

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南洲先生建碑記

翻刻
南洲先生建碑記                         八十二叟 梅成書
西郷南洲先生の手筆の詩を石にゑりて東京なる木下川の薬妙院に建むと勝大人の物し
給ふ其工事をおのれと鐵久に任かせられたり明治十二年七月の廿七に彫刻なり
ぬれは谷中の石工群鶴か許より神田佐久間町河岸まて引出舟に積のせて
しはし休らふ折しも俄に大雨降り出神さへ鳴はためきしか暫有て晴わたり
たれはやかて木下河に漕至りぬ廿八日朝またき薬妙院に持はこひぬ此時
神なりひゝきて雨は車軸を流す計降出たり廿九日名残なく晴渡たり暁より
おき出て人々何くれと力をつくして建終りぬ神酒併飯なんともかたの如侍
里人等もむれ集よろこひあへる時しも又空かきくもり俄に黒雲起りつゝ雨は
しのをみたしてをやみなく降り出驚はかりの雷鳴りひゝきいとすさましなむと
いふ計なしかゝりけるほとに雲間より龍の顕れ出たるを人々仰ぎ見て
おそろしあなたふとゝいふまもなく雲をつかみてひらめき昇りにけりされは日比
うちつゝきたる旱に半枯なんとしつる稲草も青みわたつて田毎の水は
あふるゝはかりに漲りたれは鳰とりのかつしか人は是なむ甘雨なんめり天より
黄金をふらし給へるなりと悦あへり抑天地の物に感する必ず応ありたとへは
撞にひて鐘のひゝくか如く其顕るゝかたちを霊といひ奇といふめり其くすしき
わさは神のなせる妙なる理りなれはあへてあやしむにたらす南鬼神感応の奇特といふ也
されはかゝる例古しへより多しとはいへともまのあたり見たる此あらましを後の世にも伝へんとかく記し
おくになむ   明治十六年十一月    玉屋忠次郎建之 行年七十歳

【年月】明治16年11月
【建碑】玉屋忠次郎
【撰文】玉屋忠次郎
【染筆】中井梅成
【石工】広群鶴か
【所在】洗足池公園(東京都大田区南千束
【概要】
勝海舟西郷隆盛の詩碑の制作を玉屋忠次郎と鐵久なる人物にまかせ、明治12年7月石工広群鶴の手によって碑が完成した。その「留魂詩碑」を木下川の薬王院浄光寺に設置する際、日照り続きのところに雨が降り龍が現れるという奇瑞が起きたという話を4年たって記したもの。後述の「追慕碑」には、明治16年に「留魂詩碑」の存在を海舟が明らかにし、七回忌を行い留魂祠を建てたと記される。それにあわせてまたはきっかけとして制作された碑だろうか。かな文が精緻に彫られたいい碑だと思う。
【疑問】

  • 赤字にした「随」と「今」はすこしあやしい。

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勝海舟追慕碑

翻刻
先師海舟勝先生深追慕南洲西郷君建碑刻其詩以為
記念碑在南葛飾郡木下村上木下川浄光寺域内而其
事絶不語于人故世無知之時明治十六年黒田君清隆
吉井君友実税取君篤相携訪先生曰南洲歿後已経七
年朝譴未霽同志相会竊予冤魂如何先生乃始告建碑
之事三君驚喜終共修七回之忌辰於其地其後同志与
寺僧謀側建小祠名曰留魂祠蓋採南洲詩中之語也今
茲官改修荒川碑祠当水路有撤去之命於是与目賀田
君種太郎議移之荏原郡馬込村千束池畔勝家別業大
正二年七月工事竣成矣運搬建設之事一委石工広群
鶴而督之者同門生宇佐穏来彦也
大正二年八月    門下生富田鐵之助謹誌

【年月】大正2年8月
【撰文】富田鐵之助
【染筆】富田鐵之助
【石工】広群鶴か
【所在】洗足池公園(東京都大田区南千束
【概要】
木下川の薬王院浄光寺にあった「留魂詩碑」が荒川改修で水没する地にあたったため、大正2年7月に勝の別業があった洗足池畔に移したことを記した碑。なお既に勝は没している。また、勝が「留魂詩碑」を建てたがそれを人に知らせていなかったことや、黒田清隆らが西郷の七回忌を執り行いたいと相談を受けたときに碑の存在を知らせ、彼らが喜んだこと、更に七回忌には碑の側に祠を建て「留魂祠」と名付けたことも併せて語られている。その祠も移築され近くに現存する。
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