葵正観世音菩薩碑(東京都台東区谷中・全生庵)

翻刻
東照宮守護仏 昆首竭磨作
正観世音菩薩
  普門山全生菴
(碑陰)
葵正観世音者南天竺昆首竭磨之作而  欽明帝
朝自西天所伝之霊像也爾来転旋伝鎌倉右大将及
室町氏代々将軍深加尊崇後留日向大慈寺又在洛
東福寺支院長慶寺我 東照宮崇尊尤厚竟遷之江
戸城毎月十八日修行観音懺法祈願天下泰平殊以
徽号葵字冠焉慶安二年天寿院殿建立普門山大慈
寺於大塚上街以刑部卿局為之開基香花久薫然維
新之際為廃寺故奉迎之余家供養匪懈明治十六年
一月創草一宇於北豊嶋郡谷中村号普門山全生菴
乃安置葵正観世音余概挙其来由以告後之渇仰者
 明治十六年五月  正四位山岡鐵太郎誌
寄附人名/本山国泰寺檀中
南兵吉/金田耕太郎/南清太郎/上庄六三郎/小川善三郎/金田八左衛門/南与平/岩間覚平

【年月】明治16年5月
【撰文】(碑陰)山岡鐵舟
【筆者】山岡鐵舟
【所在】全生庵(東京都台東区谷中)
【概要】
全生庵の本尊である葵観音の由来について記した碑。欽明帝のころに渡来し、頼朝、また室町将軍代々に伝わりという大げさな伝承もついている様子。平安時代後期の作と考えられ、日向・大慈寺から京都・東福寺塔頭・長慶寺に移り、さらに江戸に。大塚・大慈寺に安置されるも廃寺となって、明治16年全生庵の本尊として迎えられたとのこと*1。塀のすぐ前に建っているため碑陰をみるのは難しく、何枚もの写真を撮ってなんとか読むことができた。裏はわりと状態いいが、表はそれなりに傷んでいる。破損と変色があるので、戦時中に爆弾の被害でも受けたのだろうか。
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観世音菩薩表徳碑(東京都台東区谷中・全生庵)

翻刻
慈眼視衆生 独園拝書「」
常念観世音菩薩「」(観世音菩薩画像)「鐵舟」
福聚海無量 滴水拝書「」
広群鶴刻
(碑陰)
観世音菩薩表徳碑
千葉立造君妻名曰冨喜性敦慤貞実年四十罹病漸篤
一日召子女懇諭後事及夜半気息奄奄君将報親戚冨
喜曰待明旦亦不晩君問其故冨喜曰妾二十一歳時有
感焉願観世音菩薩以豫知死期苟知死期従容待命無
醜態爾来昼夜念之十八年死期之至菩薩必有告乎因
安睡少時忽然開眼曰今呼妾曰尚早矣誰也一座無呼
之者乃又歎曰是焉知非菩薩告妾哉妾必不死矣後果
如其言遂回生云嗚呼菩薩妙応可仰信而冨喜一誠亦
可称矣君将立石以表之於是鐵舟子画菩薩像掲以正
国師所書尊号独園滴水二師亦各書其経中偈益皆
有所感也而叙其概者高橋精一也
 明治二十七年三月    泥舟居士撰併書

【年月】明治27年3月
【撰文】(碑陰)高橋泥舟
【筆者】白隠、鐵舟、滴水、独園/(碑陰)高橋泥舟
【石工】広群鶴
【所在】全生庵台東区谷中)
【概要】
鐵舟筆の観音像が彫られた石碑で、他に白隠による尊号、滴水と独園の偈、更に碑陰には泥舟による建碑の経緯がつづられている。浅学のためはっきりと意味がつかめないところもあるが、観音信仰による奇蹟で、重い病にかかった人が生き返ったというようなことだと思う。奇跡の本人は、鐵舟の侍医である千葉立造(愛石)の妻。真後ろに塀があって碑陰は見づらい。また一部損傷している。印は「鐵舟」以外読めなかったので空欄にした。ご教示いただければ幸いです。鐵舟、私淑する白隠、師滴水及び独園、そして泥舟となかなか役者のそろった名碑だと思う。
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瘞首冢碑(東京都世田谷区豪徳寺)

翻刻
瘞首冢碑
小山戦死故彦根藩士十一人首塚碑   吉備 川田剛毅卿撰文
均是死也或自経溝瀆或殞命鋒鏑而勇怯分焉均是戦也或従王師或党乱賊而義不義
判焉伏水之変東帥破帰輸城謝罪而麾下壮士尚不忍忿忿之心蜂屯蟻聚拠二緫両野
間当是時彦根矦出帥勤 王其隊長青木頼実小泉信茂渡辺昌之等奉総督府命与列
藩将校同屯於宇都宮聞賊溯利根川侵関宿出次石橋旋抵間間田会結城告急昌之率
兵赴援餘衆進至小山与賊軍遇壬生笠間兵短兵急接不利頼実連発大礟破之昌之聞
礟声途還同進賊退次栃木駅是日頼実兵撃殪敵八人而馘其一明日賊精兵二千餘自
諸川駅転陣小山衆奮欲撃之時監軍香川敬三及信茂等以足利揖斐巗村田兵来援乃
議分軍為三信茂与諸藩兵従前面進昌之頼実東西横衝部暑既畢皷嘇而前賊不支我
追北疾馳賊俄伝令撒兵布陣四面挟撃銃丸雨注我軍苦戦自己至未遂敗走独頼実奮
闘不卻為賊衆所囲信茂昌之回兵返救衆寡不敵再敗而退於是頼実督戦益励硝弾共
殫抜剣馳突与部兵十人倶死之実明治元年戊辰夏四月十七日也是役也官軍失利賊
勢頗張然彼勝而驕此懲而毖則異日諸将発憤協力能平強敵者未必無頼実等戦死之
功也而議者或憾其早死不目今日中興之業嗚呼其然豈其然乎子輿氏有言勇士不忘
喪其元古之人固有願以馬革裹尸者且夫自封建之制行列藩士大夫各君其君夫復知
有 天朝是以桀狗吠堯致忠所事其頑可憎其情可愛然而一旦戦亡身為厲鬼妻孥流
離転乎溝壑者比比皆是乃頼実等生為王臣死列祀典恩禄優渥子孫長保其家為幸多
矣其何憾之有初小山之敗一卒脱帰具白其状監軍乃使清水荘六秋山喜八持還十一
人首葬諸武蔵荏原郡世田谷豪徳寺矦家先塋之側今茲乙亥夏五月旧彦根藩士等請
矦建碑表之属余以銘銘曰
  不為飲器落敵手 長与先君相左右 首乎首乎能首丘 損身報国維功首
  従四位井伊直憲篆額 権大内史正六位日下部東作書   石工広群鶴刻字

【年月】明治6年5月
【題額】井伊直憲
【撰文】川田甕江
【染筆】日下部鳴鶴
【石工】広群鶴
【所在】豪徳寺首塚側(東京都世田谷区豪徳寺
【概要】
慶應4年(明治元年)4月17日、現栃木県小山市で戦われた小山の戦い(第2次)は、新政府軍の大敗に終わり、包囲された彦根藩の青木貞兵衛隊は全滅した。後日、青木を含む11名の首が持ち帰られ、豪徳寺にその首を埋め塚を築き、明治6年に碑を建てたという。塚は現存し、その頂上に「瘞首塚碑」と彫られた碑があり、またそのふもとに経緯を記した本碑が建つ。状態すばらしく、名工の腕を堪能できる名碑。おそらく寺が適切に管理を行っているのだと思われる。「瘞首塚」に「えいくびづか」とルビが附されているのを目にしたが、かなり抵抗のある読み。「えいしゅづか」または「えいしゅちょう」と読みたい。なお、首塚に実際に首が埋まっているのかについて、【参考】にあげた2本では対立がある。私はある方に傾いているが、首塚であれば当然首が埋まっていると考えるのも短絡であり、存在しない可能性の指摘は尊重したい。
【参考】

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重建石燈碑(東京都上野東照宮)

翻刻
重建石鐙之碑
               廣羣鶴刻字
重建石燈碑記   江都 中村正直
            向山榮篆額
有功徳於世者久而人益思慕焉如徳川氏之祖
東照公其尤者也摂州大坂建國寺舊有公祠明
治之變祠廢一切器具皆被販賣時有有志之相
謀買淂其石燈二十五基既東京忍岡祠廟修造
功竣因建之祠前實明治九年丙子九月也建國
寺舊有百餘基皆係諸侯所獻今幸存其殘餘于
此後人之思慕亦有託而存焉乃作之詞曰
公之聖靈 滿於天下 何用石燈 此區々者
乃人有思 非物莫寫 親賢樂利 視此廟社
 明治九年十二月    木村凝之書

(碑陰)
我日本帝國求古人之有功徳]於世者莫大且偉於
東照公焉苟有愛國敬神之志]者孰弗欽仰思慕焉
況静岡縣諸士族乎此文雖僅々]數百字亦足以益
於世道人心則此石此文謂之]萬年不朽可也
        老友大槻]清崇評
            ]書

從五位本荘宗武/從五位阿部正功/從五位松平忠敬/從五位酒井忠道/從五位阿部正桓/從五位大河内輝聲/從五位松井康載/從五位内藤信美/駿州静岡住 故對馬守庶流安藤廣勤/正五位澀澤榮一/從五位杉浦譲/從五位肥田濱五郎/正六位立嘉度/從六位石川利行/正七位杉山一成
幹事/嘉納希芝/摂州灘住 嘉納次郎右衛門/平岡準藏/土岐重光/坂本柳左/增田充績/渡邊鼎/宮内公美/廣羣鶴/大塚喜太郎/祠官/杉浦勝雅

【年月】明治9年12月
【題字】向山黄村
【撰文】中村敬宇/(碑陰上部)大槻盤渓
【染筆】木村凝之/(碑陰上部)不明
【石工】広群鶴
【所在】上野東照宮池之端参道(東京都台東区上野公園9-88)
【概要】
大阪府大阪市北区天満にあった川崎東照宮別当寺は神護山建国寺)にあった石灯籠100基余りのうち25基を明治9年上野東照宮に移築したことを記念した碑。川崎東照宮明治6年に廃社となった。碑陰の大槻盤渓による文は上半分が剥がれおちているため、墓碑史蹟研究. 第6巻および明治八大家文: 上中下によって補塡した。廃社となった川崎東照宮は、東光院萩の寺(大阪府豊中市南桜塚)に遷座、本地堂瑠璃殿が地蔵堂として現存、本地仏薬師如来も当寺に伝わっている*1*2。また大阪天満宮大阪府大阪市北区天神橋)にも石灯籠、また神輿庫が移築されている*3

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留魂詩碑、建碑記、追慕碑(東京都大田区洗足池)

南洲留魂詩碑

翻刻
朝蒙恩遇夕焚阬人生浮沈
似晦明縦不回光葵向日若
開運意推誠洛陽知己皆為
鬼南嶼俘囚独窃生生死何
疑天付与願留魂魄護
皇城 無 獄中有感南洲

(碑陰)
慶應戊辰之春君率大兵東下人心鼎沸市民荷擔
我憂之寄一書於屯営君容之更下令戒兵士驕激不使
府下百萬生霊陷塗炭是何等襟懐何等信義
君已逝矣偶見往時所書之詩気韻高爽筆墨淋
漓恍如視其平生欽慕之情不能自止刻石以為
紀念碑嗚呼君能知我而知君亦莫若我地
下若有知其将掀髯一笑乎
明治十二年六月 海舟勝安芳  廣羣鶴鐫

【年月】明治12年6月
【作詩・撰文】西郷隆盛/(碑陰)勝海舟
【染筆】西郷隆盛/(碑陰)勝海舟
【石工】広群鶴
【所在】洗足池公園(東京都大田区南千束
【概要】
明治10年西南戦争に没した西郷隆盛を追慕し勝海舟が建てた碑で、西郷の自作自筆の詩を写したもの。詩は沖永良部島の獄中にあったときの作だが、書写は後年か。原蹟は大久保利通旧蔵で当時は勝所蔵の由*1。現存するかは確認できず。豪快な筆跡を彷彿とさせる見事な彫り。碑陰は勝による由来記。西郷に対する思いのあまりの建碑であって、その心情が吐露される。碑は当初葛飾区木下川の薬王院浄光寺にあったが、大正2年に移設された。詩の最後に添えられた「無」は詩中の脱字。
【疑問】

  • 碑陰3行目最後の字「全」に見えるが、しっくりこず
  • 碑陰最後「安芳誌」の「誌」字、写真ピンボケなのもあり、自信なし

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南洲先生建碑記

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南洲先生建碑記                         八十二叟 梅成書
西郷南洲先生の手筆の詩を石にゑりて東京なる木下川の薬妙院に建むと勝大人の物し
給ふ其工事をおのれと鐵久に任かせられたり明治十二年七月の廿七に彫刻なり
ぬれは谷中の石工群鶴か許より神田佐久間町河岸まて引出舟に積のせて
しはし休らふ折しも俄に大雨降り出神さへ鳴はためきしか暫有て晴わたり
たれはやかて木下河に漕至りぬ廿八日朝またき薬妙院に持はこひぬ此時
神なりひゝきて雨は車軸を流す計降出たり廿九日名残なく晴渡たり暁より
おき出て人々何くれと力をつくして建終りぬ神酒併飯なんともかたの如侍
里人等もむれ集よろこひあへる時しも又空かきくもり俄に黒雲起りつゝ雨は
しのをみたしてをやみなく降り出驚はかりの雷鳴りひゝきいとすさましなむと
いふ計なしかゝりけるほとに雲間より龍の顕れ出たるを人々仰ぎ見て
おそろしあなたふとゝいふまもなく雲をつかみてひらめき昇りにけりされは日比
うちつゝきたる旱に半枯なんとしつる稲草も青みわたつて田毎の水は
あふるゝはかりに漲りたれは鳰とりのかつしか人は是なむ甘雨なんめり天より
黄金をふらし給へるなりと悦あへり抑天地の物に感する必ず応ありたとへは
撞にひて鐘のひゝくか如く其顕るゝかたちを霊といひ奇といふめり其くすしき
わさは神のなせる妙なる理りなれはあへてあやしむにたらす南鬼神感応の奇特といふ也
されはかゝる例古しへより多しとはいへともまのあたり見たる此あらましを後の世にも伝へんとかく記し
おくになむ   明治十六年十一月    玉屋忠次郎建之 行年七十歳

【年月】明治16年11月
【建碑】玉屋忠次郎
【撰文】玉屋忠次郎
【染筆】中井梅成
【石工】広群鶴か
【所在】洗足池公園(東京都大田区南千束
【概要】
勝海舟西郷隆盛の詩碑の制作を玉屋忠次郎と鐵久なる人物にまかせ、明治12年7月石工広群鶴の手によって碑が完成した。その「留魂詩碑」を木下川の薬王院浄光寺に設置する際、日照り続きのところに雨が降り龍が現れるという奇瑞が起きたという話を4年たって記したもの。後述の「追慕碑」には、明治16年に「留魂詩碑」の存在を海舟が明らかにし、七回忌を行い留魂祠を建てたと記される。それにあわせてまたはきっかけとして制作された碑だろうか。かな文が精緻に彫られたいい碑だと思う。
【疑問】

  • 赤字にした「随」と「今」はすこしあやしい。

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勝海舟追慕碑

翻刻
先師海舟勝先生深追慕南洲西郷君建碑刻其詩以為
記念碑在南葛飾郡木下村上木下川浄光寺域内而其
事絶不語于人故世無知之時明治十六年黒田君清隆
吉井君友実税取君篤相携訪先生曰南洲歿後已経七
年朝譴未霽同志相会竊予冤魂如何先生乃始告建碑
之事三君驚喜終共修七回之忌辰於其地其後同志与
寺僧謀側建小祠名曰留魂祠蓋採南洲詩中之語也今
茲官改修荒川碑祠当水路有撤去之命於是与目賀田
君種太郎議移之荏原郡馬込村千束池畔勝家別業大
正二年七月工事竣成矣運搬建設之事一委石工広群
鶴而督之者同門生宇佐穏来彦也
大正二年八月    門下生富田鐵之助謹誌

【年月】大正2年8月
【撰文】富田鐵之助
【染筆】富田鐵之助
【石工】広群鶴か
【所在】洗足池公園(東京都大田区南千束
【概要】
木下川の薬王院浄光寺にあった「留魂詩碑」が荒川改修で水没する地にあたったため、大正2年7月に勝の別業があった洗足池畔に移したことを記した碑。なお既に勝は没している。また、勝が「留魂詩碑」を建てたがそれを人に知らせていなかったことや、黒田清隆らが西郷の七回忌を執り行いたいと相談を受けたときに碑の存在を知らせ、彼らが喜んだこと、更に七回忌には碑の側に祠を建て「留魂祠」と名付けたことも併せて語られている。その祠も移築され近くに現存する。
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井田進也校注『幕末維新パリ見聞記』(岩波文庫)の注などに関する疑問いくつか

成島柳北の「航西日乗」と栗本鋤雲の「暁窓追録」を収めた『幕末維新パリ見聞記』(岩波文庫、2009年)というのを読みました。校注は井田進也という人。中江兆民の研究を中心にされていた方のようです。2016年没。

基本的にこの本の注はいいもので、柳北の方はパリやイタリア各都市における訪問先の比定が助かるし、鋤雲のかなり難解な語彙は注なしでは読むのはきつかったと思います。しかし、ところどころ信じがたいミスや程度の低いおかしなものが混じっているんですね。校注者やそれを手伝った人の問題もあるとは思いますが、それ以上に編集者の杜撰な仕事が気になります。というわけで、目についたものを挙げました。注以外にも、読み下しとルビの指摘もあります。

以下、疑問のある部分を本文と注をあわせて引用しています。行頭*の後に引いたのが該当箇所の注。引用の際、ルビは省略しました。ただしルビに問題があるものについては()内に入れて示しています。

航西日乗

明治五年壬申の*九月(p.9)
*壬申 みずのえさる。五行を甲・乙のように兄(え)と弟(と)に分けた十干と十二支を組み合わせた暦年の数え方。明治五(一八七二)が壬申の年に当たる。(p.181)

この注は特に問題があるわけではないのですが、この本の最初の注がこれであるという点から取り上げていいかと思いました。成島柳北の「航西日乗」を読もうとする人に干支の説明が必要と考えるセンスのなさ。この時点で、すこし警戒をしました。

馭者曰く、是れボウガハアの寺*なり。(p.28)
*ボウガハアノの寺 島の中央部にある世界遺産ポロンナルワ(Polommaruwa)の仏教遺産(p.185)

柳北一行は、スマトラ島ゴール港で「ボウガハアノの寺」なる寺に寄っています。日帰りの訪問。この寺を注では世界遺産ポロンナルワと認定していますが、直線距離にして200km以上あるところに日帰りで行けるとは思えず、また日乗の記述からそのような長距離旅行をしたようには見えません。ゴール港近傍の寺でしょう。

人定連房灯影残 人定りて、連房灯影残す。(p.39)

凡例によると、底本では漢詩が漢文で、校注者が「読み下し文を添えた」とのこと。この「人定」は人が寝静まる時刻を意味すると思われ、「人定りて」と読むのは違和感があります。

今朝甲板より望めば、右にはエルバ島を望み*、左にはコルシカ嶋を瞻る。(p.40)
*右にはエルバ島を望み 通常ポート・サイドを出たフランス郵船は、イタリア半島シチリア島の間のメッシナ海峡、次いでコルシカ島サルディニア島の間のボニファチョ海峡を抜けて一路マルセイユへ直行するのだが、この船はコルシカ島を右回りに迂回してマルセイユを目指したようである。(p.187)

エルバ島コルシカ島の間を南から北へ抜けてマルセイユに行く場合、コルシカ島は「左回り」するのであって、「右回り」ではありません。

唱出東京旧竹枝 唱へ出だす、東京の旧竹枝*。(p.57)
*竹枝 男女間の愛情や土地の風俗などを題材にした唐代の歌。ここでは江戸時代以来の都々逸の類だろう。(p.197)

異郷パリで新年を迎えたときの詩の一節。江戸後期から明治前期にかけて流行した、日本における竹枝についてまったく無視しているのは不可解です。柳北自身も作っていたはず。

哂彼驪山錮九泉 哂ふ、彼の驪山に九泉*を錮すを。(p.59)
*驪山 唐の都長安に近い驪山には温泉があって温泉宮が作られていた。(p202)

ナポレオンの廟を訪問した折の詩の一節です。とすればこの「驪山」は始皇帝陵を指すと考えるのがいいように思います。「九泉」はあの世の意。「温泉があって云々」は玄宗楊貴妃を想起させますが、ここでは関係ないでしょう。そもそも温泉というのが唐突な感じがあります。ひょっとしたら「九泉」という字面から温泉を思いついたのかもしれません。

加非店*に憩ふ。其卓椅多く石を以て造る。(p.92)
*加非店 北側回廊中ほどで現在も営業しているカフェ・フロリアン(Florian)(以下略)(p.220)

ヴェネツィアサンマルコ広場にあるカフェ・フローリアンは「南側」の回廊であって、「北側」ではありません。フローリアンからは50年ほど遅れるものの、これまた歴史のあるカッフェ・クアードリとの混同でしょうか。こちらは「北側」の回廊にあります。

暁窓追録

明治己巳(こし)三月(p.140)

底本で干支にルビがついていたと思えませんし、また凡例によると「新たに新かなづかいのルビを付した」とのこと。ひょっとしたら「こし」という読みもあるのかもしれませんが、新たにつけるなら一般的なものを使うべきでしょう。

歴山港には烏鴉多く有り、皆白頭なり。燕丹の事*、深く奇とするに足らず。(p.171)
*燕丹の事 燕の太子丹が秦の始皇帝に刺客を放とうとしたときに、白色の虹が太陽の面を突き通す異変が起こったという故事(『史記』「鄒陽伝」)。(p.258)

ここで挙げるべき故事はもちろん烏頭馬角です。

政府又検屍場*・投売場*二区の設けあり。(p.175)
*検屍場(以下略)
*動産公売場 ロッシーニ街を挟んで、旧オペラ座の斜向かい、ドゥルオー街の角にある動産公売所(以下略)(p.261)

本文と注の見出しが異なるという、信じがたいミス。

「東行記」翻刻・校訂

 烏丸光広筆「東行記」(東京国立博物館蔵)の翻刻本文と校訂本文です。翻刻にあたりColBase掲載の画像を使用しました。
 「東行記」には同じく光広筆の別本が京都国立博物館に所蔵されています。草稿本と考えられますが、異なる部分もあります。こちらもColBaseに画像が掲載されており参照しました。ただし、画像は一部しか載っていません。
 翻刻は、助広倫子さんの「「東行記」釈文〔烏丸光栄写との対校〕」(国立国会図書館サーチ)をおおいに参考にしました。対校につかわれた光栄写本とは京博本に酷似するもので、こちらも利用しています。
 翻刻本文。字詰めは無視し、和歌は改行2字下げにしています。()内は傍書。
 校訂本文。訓点や濁点を附し、かなを漢字に漢字をかなに適宜あらため、脱衍を補ったり削ったりなどをしました。また和歌に通し番号を附しています。
 翻刻には誤りもあると思いますので、ご利用のさいはお気をつけください。また、意味がとれず校訂が不十分なところもあります。11番歌22番歌など。ご教示いただければさいわいです。

翻刻本文

都を出てあふ坂の関にいたり瀬田の長橋うちわたりてよめる
  しるしらぬ会とひかはす旅人の行とくるとにあふ坂の関
  あふみる瀬田の長橋なかゝれとおもふ(ひ)そめたる君が代のとき
なを行程に草津いしへの里土山をすきて鈴鹿山を行に伊勢の海ちかくちかく見えわたり八十瀬の浪に猶袖しほり旅衣のはる/\行かたは関の地蔵とかや四日市といふ所をなん打過て
  聲しきる八十瀬の浪はきゝいつるすゝかの山の雪そありける
いせの国桒名にとゝまり渡海七里夜をこめことさはかしく各舟にとりのり行程にたく火のかけほのかに浪のうへに見え侍りみな人それはほし崎とやらんいふをきゝて
  影もたゝ幽に見て浪の上にたく火はよるのほし崎の山
夜明もて行ほとに北のかたになこやの城も見え侍りそれより尾張のあつたのみやにつきしかは神のゐかきの跡とめて見え侍しにある人櫻花ちりなんのちのかたえには松にかゝれる藤をたのまむといへるは此神の詠吟なりとかたりあへる
  咲花にあけのゐかきをこえぬとも見まくほしさは神もいさめし
ひるの程しはし宮にやすらひて道はる/\行すきけるを煙しき寺ありけるをとひ侍けるにこれはかさ寺といへりけれはたちより見侍りて
  行人もきて見よかしとかさてらに雨のふる日をたよりにそまつ
とよみてなるみ野を行になきさにあまる田靏のこゑを聞侍りて
  風吹は音になるみの浪間より明るなきさにたつそなくなる
猶ゆき/\て三河の国にうつり八はしを見侍るへきとてたつね行にそのあとしもなしそこの里人にとひ侍りけるにもいつこをそれといふへきしるしともなく田のかしこにありて桧木の柱ともなきものなとをこれなん八橋なりといひけれは
  とはれてもなにを三河の八橋とことふる事をかきつはたかな
八橋を見給ひてふりちりうの里へはるかに出給ふにいとまつしけにいゑ居とわつかにやとり給ふへき所もおほへさりけれともわりなく一夜をとゝまりちりうといふ名をたいにて
  秋過て春にもなれはこのさとに米いちりうももたぬ民哉
明行道すから罡崎の城をすき大ひら川を打わたり吉田に一夜とゝまりて濱なのはしも近くなるしほ見坂を越行けれは南海まん/\と見えわたりけるに
  あしひきの山路越てしほみ坂南の海のいかてもしられす
浪のうつまさこの数をひろひつゝはまなの橋とたれかいひけん
猶ゆく程にしらすかと云所を過侍りて浪もあらひの濱より舩に乗まひ坂と云所にあかり濱枩風の音きく里に一夜をあかしかけ川の城を過新坂の麓のやとり各駒の足やすめやすらひけるに所の名物なりとて蕨をしたゝめたる物なと出しけるに新坂をしゆやうさんと云へきにやわらひを朝暮もちひぬる里人はくいしゆくせひにや成侍るらんなとたはむれける
  新坂をこえんと足をやすめをく宿にわらひわらひのもちつきの駒
とたはむれつゝ小夜中山を越行に西行法師の命なりけりとよみしもこゝにやと昔をしのふもよほされて
  いにしへをおもひそ出る年たけてこえし道ある小夜の中山
と讀嶋田を過行大井川を打わたりぬるに都におなし名さへ聴まほしくおほえ侍る
  いとはしな浪かけぬとも大井川同じ名におふ都なりせは
と打詠めて行日数程へて藤枝につきしかは一夜をとゝまり明て行程にうつの山にいたりぬるにつたのほそ道越し昔の人の現も夢に成ぬるよとおもひ侍りて
  こえしその人をむかしのうつの山うつゝも夢になりて過けん
するかの苻中にちかつきしかはしはしとゝまり給ひそれよりゑ尻と云所を過行給ひて三保松原清見寺にいたり給て見給ふにうしろの山そひへて諸木えたをましへ岩尾の瀧をち池ふりて庭前の櫻花色香ことなり浦のけしきはしつかにして入海の浪こまやかにかすむあなたは三保の枩原ゆふ日のかけうしほにうつろひ沖行舟かすかにそれかあらぬかとうたかはるゝに帰る鳫の聲するをりしも三日月のかけかたふき鐘の響も長閑なるよそほひまことに心もことはもおよひかたき春の夜の一時をおしみしをけに此おりにやとめて給ひこのまゝ酒すゝめ興し
  清見かた関守人はなけれとも浦のなかめにたひとまりけり
西になる日は入海をへたてつゝかすむひまよりみほの松原
清見寺の鐘も暁ちかくつきわたるおりしもたち出行ほとに冨士の根も雲よりうへはいさしらすみえぬるほとにいとたかふしてみる/\行は時しらぬ雪のはたへしろたへにかすみのころもたなひきかゝるあしたか山を見やりかむ原とやらんをはる/\と舩よはふ冨士のすそ野を日も暮かたに打わたり夜半にや行かむよみしうき嶋かはらを行過侍り
  冨士の根の雪こそ時はしらすともかすむそ春の明ほのゝ空
  見わたせはふし■(の)すそ野を行雲のあしたか山の嶺にかゝれり
  するかなるふしの高ねの音にそへて何うきことのうき嶋か原
伊豆の三嶋にいたり神殿を拝したてまつり其日はとゝまり夜もやう/\明る箱根山を越行にあしたか(の)のけしきいとしつかなりしかともさすか深山なれは風はたさむく春のうす雲ちりくるも木すゑの花かともうたかはるゝにめてつゝ行に四方の山かきくもりかせいと物さはかしく成もて行ほとに雪しきりにふりつゝ駒のあしなみ行かたもおちつかま(な)く打つれ行人もひとり/\になり箱根の里まてまとひきつゝ日もまた暮やらぬも雪を山路の関の戸さしとさゝへふれしかは其日ははこねの里にとゝまりてたく火のもとによりけふのうさなとかたりあへる
  箱根山はるともいさやしら雪のみちふりかくし行かたそなき
さてそれよりさかみの国菊川の宿をなん見侍りける
むかしよりかはらてこゝにすむ水のをときく川の末はたゝせし
それより小磯大磯藤沢とつかほとかやかたひらの宿よりかな川とやらんに打過手をゝりてかそふれは三月十一日に江戸へなんつき侍りぬる

校訂本文

都をいでて逢坂の関にいたり、瀬田の長橋うちわたりてよめる
  01しるしらぬ会ひ問ひかはす旅人のゆくとくるとに逢坂の関
  02近江なる瀬田の長橋ながかれとおもひそめたる君が代のとき
なほ行くほどに、草津・石部の里・土山をすぎて鈴鹿山を行くに、伊勢の海ちかく見えわたり、八十瀬の浪になほ袖しぼり、旅衣のはるばる行くかたは関の地蔵とかや。四日市といふ所をなんうち過ぎて
  03声しきる八十瀬の浪は聞きいづる鈴鹿の山の雪にぞありける
伊勢の国桑名にとどまり、渡海七里夜をこめこと騒がしく、各舟にとりのり行くほどに、たく火の影ほのかに浪の上に見えはべり。みな人「それは星崎とやらん」いふを聞きて
  04影もただかすかに見えて浪の上にたく火は夜の星崎の山
夜明もて行くほどに、北のかたに名古屋の城も見えはべり。それより尾張の熱田の宮につきしかば、神の斎垣の跡とめて見えはべりしに、ある人「「桜花ちりなんのちのかた枝には松にかかれる藤をたのまむ」といへるはこの神の詠吟なり」とかたりあへる
  05さく花に朱の斎垣をこえぬとも見まくほしさは神もいさめし
昼のほどしばし宮にやすらひて、道はるばる行きすぎけるを、煙しき寺ありけるを問ひはべりけるに、「これは笠寺」といへりければたちより見はべりて
  06ゆく人もきて見よかしと笠寺に雨のふる日をたよりにぞまつ
とよみて、鳴海野を行くに、渚にあまる田鶴の声を聞きはべりて
  07風吹けば音に鳴海の浪間よりあくる渚に田鶴ぞなくなる
なほ行きゆきて三河の国にうつり、八橋を見はべるべきとてたづね行くに、そのあとしもなし。そこの里人にとひはべりけるにも、いづこをそれといふべきしるしともなく、田のかしこにありて桧木の柱ともなきものなどを「これなん八橋なり」といひければ
  08とはれてもなにを三河の八橋とこたふる事をかきつばたかな
八橋を見たまひて、知立の里へはるかに出でたまふに、いと貧しげに家居もわづかに、やどりたまふべきところもおぼへざりけれども、わりなく一夜をとどまり、知立といふ名を題にて
  09秋すぎて春にもなればこの里に米いちりう(一粒/知立)ももたぬ民かな
あけゆく道すがら、岡崎の城をすぎ大平川をうちわたり吉田に一夜とどまりて浜名の橋も近くなる潮見坂をこえ行きければ、南海漫漫と見えわたりけるに
  10あしびきの山路こえきて潮見坂南の海のいかでもしられず
  11浪のうつ真砂の数をひろひつつ浜名の橋と誰かいひけん
なほゆくほどに、白須賀といふところをすぎはべりて、浪も新居の浜より船にのり、舞阪といふところにあがり、浜松風の音きく里に一夜をあかし、掛川の城をすぎ、新坂の麓のやどり、各駒の足やすめやすらひけるに、所の名物なりとて蕨をしたためたる物など出しけるに、「新坂を首陽山といふべきにや、蕨を朝暮もちゐぬる里人伯夷・叔斉にやなりはべるらん」などたはむれける
  12新坂をこえんと足をやすめをく宿にわらびの望月の駒
とたはむれつつ、小夜の中山を越えゆくに、「西行法師の命なりけりとよみしもここにや」と昔をしのぶあはれもよほされて
  13いにしへをおもひぞ出づる年たけてこえし道ある小夜の中山
とよむ。嶋田をすぎゆき、大井川をうちわたりぬるに、都におなじ名さへ聴かまほしくおぼえはべる
  14いとはしな浪かけぬとも大井川おなじ名におふ都なりせば
とうちながめてゆく。日数ほどへて藤枝につきしかば、一夜をとどまりあけてゆくほどに、宇津の山にいたりぬるに、「蔦の細道こえし昔の人のうつつも夢になりぬるよ」とおもひはべりて
  15こえしその人をむかしの宇津の山うつつも夢になりてすぎけん
駿河の府中にちかづきしかば、しばしとどまりたまひ、それより江尻といふところをすぎ行きたまひて、三保松原清見寺にいたりたまひて見たまふに、うしろの山そびへて、諸木枝をまじへ、岩尾の瀧落ち、池ふりて、庭前の桜花色香ことなり、浦のけしきはしづかにして、入海の浪こまやかに、かすむあなたは三保の松原、夕日のかげ潮にうつろひ、沖ゆく舟かすかに、それかあらぬかとうたがはるるに、かへる雁の声するをりしも、三日月の影かたぶき鐘のひびきものどかなるよそほひ、まことに心もことばもおよびがたき春の夜の一時をおしみしを、「げにこの折にや」とめでたまひ、このまま酒すすめ興じ
  16清見潟関守人はなけれども浦のながめに旅とまりけり
  17西になる日は入海をへだてつつかすむひまより三保の松原
清見寺の鐘も暁ちかくつきわたるおりしも、たち出でゆくほどに富士の峰も雲より上はいざしらず、みえぬるほどにいと高うして見るみるゆくは、時しらぬ雪のはだへ白妙にかすみの衣たなびきかかる愛鷹山を見やり、蒲原とやらんをはるばると船よばふ富士の裾野を日も暮がたにうちわたり、夜半にや行かむよみし浮島が原をゆきすぎはべり
  18富士の峰の雪こそ時はしらずともかすむぞ春のあけぼのの空
  19見わたせば富士の裾野をゆく雲の愛鷹山の嶺にかかれり
  20するかなるふしの高ねの音にそへて何うきことのうき嶋か原
伊豆の三嶋にいたり神殿を拝したてまつり、その日はとどまり、夜もやうやうあくる。箱根山をこえゆくに、朝の景色いとしづかなりしかども、さすが深山なれば風はたさむく春のうす雲ちりくるも、木ずゑの花かともうたがはるるにめでつつゆくに、四方の山かきくもり風いとものさはがしくなりもてゆくほどに、雪しきりにふりつつ、駒のあしなみゆくかたもおちつかなく、うちつれゆく人もひとりひとりになり、箱根の里までまどひきつつ、日もまた暮やらぬも雪を山路の関の戸ざしとささへ降れしかば、その日は箱根の里にとどまりて、たく火のもとにより、けふのうさなどかたりあへる
  21箱根山春ともいさやしら雪のみちふりかくしゆくかたぞなき
さて、それより相模の国菊川の宿をなん見はべりける
  22むかしよりかはらでここにすむ水の音きく川の末はたたせし
それより小磯・大磯・藤沢・戸塚・保土ヶ谷・片平の宿より神奈川とやらんにうちすぎ、手を折りてかぞふれば三月十一日に江戸へなんつきはべりぬる

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