江馬細香「甲戌仲秋遊妙興寺、帰路失涼傘、戯有此作」

翠翠円陰不可離、当時聘得自京師。蓋遮高髻常相伴、柄託柔荑随所之。新霽秋山尋蕈日、微風春寺酔花時。一朝何棄吾儂去、畏景懐君如調飢。

文化11年秋8月、細香28歳の時の作。愛知県一宮市に現存する妙興寺で涼傘(日傘)を失くした時の詩。日傘を擬人化し、なぜ私を捨てて行ってしまったのと戯れる。

翠陰が青葉の陰なので、日傘の陰は「翠翠円陰」、それは離しがたい。京都から取り寄せたものだが、擬人化して礼を尽くして招くと言った。柔荑すなわちやわらかい女性の手(細香自身の手)が柄を取って、傘は頭を日差しから遮り、いつも携えていた。「之」は行く。「尋蕈」はキノコ狩りで、「新霽」雨があがって晴れ上がったころがいいのだろう。「酔花」は花見。いつも携えていたというのを春秋の具体例で示す。「棄」の主体は日傘で客体が「吾儂」わたし。「畏景」は左伝文公7年の「趙衰冬日之日也、趙盾夏日之日也」の項の杜預の注に「夏日可畏」とあり、夏の日差しとしたいところだが、ここでは仲秋の話なのでそのように強い日差し。「調飢」は朝の空腹感。それのように懐かしというのは少し座りが悪いような気もするが。

以上、福島 理子(注)『江戸漢詩選 女流』に依った。

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新日本古典籍総合データベース

頼山陽「赤関遇大含禅師師将東遊観富岳賦贈」

吾来泛火海、君往上富山、相逢赤関下、握手蹔破顔、雖無酒腸海不測、自有詩格山難攀、共把醒眼評山海、采真帰来重合歓、取吾火海火、融君富山雪、煎君雲華喫七椀、四腋生風凌列缺、与君下視大八洲、海如蹄涔山如垤。
禅師不解飲。其山産茶、名曰雲華。此回亦与余茗飲劇談。故云。

文政元年3月24日、西遊中の山陽は下関(赤関)にて、富士登山に向かう旧知の僧大含(雲華)と出会う。雲華は下戸なため、酒の代わりに彼の寺で産した茶(雲華と名付けられた)を飲みつつ、旧交を温めた。その時に送った詩。「無酒腸海不測」は下戸であることをいい、酒を飲んでないので酔眼ではなく「醒眼」と言う。

「喫七椀、四腋生風凌列缺」は唐・盧仝の「七碗茶歌」の「七碗吃不得也、唯覚両腋習習清風生。」に基づき、山陽雲華2人のため「四腋」とした。空を飛んで「列缺(稲妻)」を凌ぐ。

山陽が行くとしてる「火海」は肥(火)の国である肥後の海。その火で富士山の雪を溶かしてしまおうという、地名を使った戯れ。また空を飛んで地上を見下ろせば、海は「蹄涔」つまり蹄でできた凹みに水がたまった程度の小さな水たまり、山は「垤(蟻塚)」のように小さく見えるね。

伸びやかで明るく空想的な詩で読んでいて心地いい。

谷口匡『西遊詩巻:頼山陽の九州漫遊』(法蔵館、2020年)で知ったものであり、以上参考にした。上に挙げたのは「西遊詩巻」版で、のちに『詩鈔』『詩集』にも採られるが小異あり。

また谷口は「采真」について「自然に任せて作為を弄さない境地。『荘子』天運篇に見える言葉。」と注しているが、よくわからない。山陽の叔父杏坪の息子(つまり山陽の従弟)采真ではなかろうか。人名であれば帰ってきたので重ねて合歓すると意味が通る。采真がこのとき下関にいたかはよくわからないけれど。

葵正観世音菩薩碑(東京都台東区谷中・全生庵)

翻刻
東照宮守護仏 昆首竭磨作
正観世音菩薩
  普門山全生菴
(碑陰)
葵正観世音者南天竺昆首竭磨之作而  欽明帝
朝自西天所伝之霊像也爾来転旋伝鎌倉右大将及
室町氏代々将軍深加尊崇後留日向大慈寺又在洛
東福寺支院長慶寺我 東照宮崇尊尤厚竟遷之江
戸城毎月十八日修行観音懺法祈願天下泰平殊以
徽号葵字冠焉慶安二年天寿院殿建立普門山大慈
寺於大塚上街以刑部卿局為之開基香花久薫然維
新之際為廃寺故奉迎之余家供養匪懈明治十六年
一月創草一宇於北豊嶋郡谷中村号普門山全生菴
乃安置葵正観世音余概挙其来由以告後之渇仰者
 明治十六年五月  正四位山岡鐵太郎誌
寄附人名/本山国泰寺檀中
南兵吉/金田耕太郎/南清太郎/上庄六三郎/小川善三郎/金田八左衛門/南与平/岩間覚平

【年月】明治16年5月
【撰文】(碑陰)山岡鐵舟
【筆者】山岡鐵舟
【所在】全生庵(東京都台東区谷中)
【概要】
全生庵の本尊である葵観音の由来について記した碑。欽明帝のころに渡来し、頼朝、また室町将軍代々に伝わりという大げさな伝承もついている様子。平安時代後期の作と考えられ、日向・大慈寺から京都・東福寺塔頭・長慶寺に移り、さらに江戸に。大塚・大慈寺に安置されるも廃寺となって、明治16年全生庵の本尊として迎えられたとのこと*1。塀のすぐ前に建っているため碑陰をみるのは難しく、何枚もの写真を撮ってなんとか読むことができた。裏はわりと状態いいが、表はそれなりに傷んでいる。破損と変色があるので、戦時中に爆弾の被害でも受けたのだろうか。
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観世音菩薩表徳碑(東京都台東区谷中・全生庵)

翻刻
慈眼視衆生 独園拝書「」
常念観世音菩薩「」(観世音菩薩画像)「鐵舟」
福聚海無量 滴水拝書「」
広群鶴刻
(碑陰)
観世音菩薩表徳碑
千葉立造君妻名曰冨喜性敦慤貞実年四十罹病漸篤
一日召子女懇諭後事及夜半気息奄奄君将報親戚冨
喜曰待明旦亦不晩君問其故冨喜曰妾二十一歳時有
感焉願観世音菩薩以豫知死期苟知死期従容待命無
醜態爾来昼夜念之十八年死期之至菩薩必有告乎因
安睡少時忽然開眼曰今呼妾曰尚早矣誰也一座無呼
之者乃又歎曰是焉知非菩薩告妾哉妾必不死矣後果
如其言遂回生云嗚呼菩薩妙応可仰信而冨喜一誠亦
可称矣君将立石以表之於是鐵舟子画菩薩像掲以正
国師所書尊号独園滴水二師亦各書其経中偈益皆
有所感也而叙其概者高橋精一也
 明治二十七年三月    泥舟居士撰併書

【年月】明治27年3月
【撰文】(碑陰)高橋泥舟
【筆者】白隠、鐵舟、滴水、独園/(碑陰)高橋泥舟
【石工】広群鶴
【所在】全生庵台東区谷中)
【概要】
鐵舟筆の観音像が彫られた石碑で、他に白隠による尊号、滴水と独園の偈、更に碑陰には泥舟による建碑の経緯がつづられている。浅学のためはっきりと意味がつかめないところもあるが、観音信仰による奇蹟で、重い病にかかった人が生き返ったというようなことだと思う。奇跡の本人は、鐵舟の侍医である千葉立造(愛石)の妻。真後ろに塀があって碑陰は見づらい。また一部損傷している。印は「鐵舟」以外読めなかったので空欄にした。ご教示いただければ幸いです。鐵舟、私淑する白隠、師滴水及び独園、そして泥舟となかなか役者のそろった名碑だと思う。
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瘞首冢碑(東京都世田谷区豪徳寺)

翻刻
瘞首冢碑
小山戦死故彦根藩士十一人首塚碑   吉備 川田剛毅卿撰文
均是死也或自経溝瀆或殞命鋒鏑而勇怯分焉均是戦也或従王師或党乱賊而義不義
判焉伏水之変東帥破帰輸城謝罪而麾下壮士尚不忍忿忿之心蜂屯蟻聚拠二緫両野
間当是時彦根矦出帥勤 王其隊長青木頼実小泉信茂渡辺昌之等奉総督府命与列
藩将校同屯於宇都宮聞賊溯利根川侵関宿出次石橋旋抵間間田会結城告急昌之率
兵赴援餘衆進至小山与賊軍遇壬生笠間兵短兵急接不利頼実連発大礟破之昌之聞
礟声途還同進賊退次栃木駅是日頼実兵撃殪敵八人而馘其一明日賊精兵二千餘自
諸川駅転陣小山衆奮欲撃之時監軍香川敬三及信茂等以足利揖斐巗村田兵来援乃
議分軍為三信茂与諸藩兵従前面進昌之頼実東西横衝部暑既畢皷嘇而前賊不支我
追北疾馳賊俄伝令撒兵布陣四面挟撃銃丸雨注我軍苦戦自己至未遂敗走独頼実奮
闘不卻為賊衆所囲信茂昌之回兵返救衆寡不敵再敗而退於是頼実督戦益励硝弾共
殫抜剣馳突与部兵十人倶死之実明治元年戊辰夏四月十七日也是役也官軍失利賊
勢頗張然彼勝而驕此懲而毖則異日諸将発憤協力能平強敵者未必無頼実等戦死之
功也而議者或憾其早死不目今日中興之業嗚呼其然豈其然乎子輿氏有言勇士不忘
喪其元古之人固有願以馬革裹尸者且夫自封建之制行列藩士大夫各君其君夫復知
有 天朝是以桀狗吠堯致忠所事其頑可憎其情可愛然而一旦戦亡身為厲鬼妻孥流
離転乎溝壑者比比皆是乃頼実等生為王臣死列祀典恩禄優渥子孫長保其家為幸多
矣其何憾之有初小山之敗一卒脱帰具白其状監軍乃使清水荘六秋山喜八持還十一
人首葬諸武蔵荏原郡世田谷豪徳寺矦家先塋之側今茲乙亥夏五月旧彦根藩士等請
矦建碑表之属余以銘銘曰
  不為飲器落敵手 長与先君相左右 首乎首乎能首丘 損身報国維功首
  従四位井伊直憲篆額 権大内史正六位日下部東作書   石工広群鶴刻字

【年月】明治6年5月
【題額】井伊直憲
【撰文】川田甕江
【染筆】日下部鳴鶴
【石工】広群鶴
【所在】豪徳寺首塚側(東京都世田谷区豪徳寺
【概要】
慶應4年(明治元年)4月17日、現栃木県小山市で戦われた小山の戦い(第2次)は、新政府軍の大敗に終わり、包囲された彦根藩の青木貞兵衛隊は全滅した。後日、青木を含む11名の首が持ち帰られ、豪徳寺にその首を埋め塚を築き、明治6年に碑を建てたという。塚は現存し、その頂上に「瘞首塚碑」と彫られた碑があり、またそのふもとに経緯を記した本碑が建つ。状態すばらしく、名工の腕を堪能できる名碑。おそらく寺が適切に管理を行っているのだと思われる。「瘞首塚」に「えいくびづか」とルビが附されているのを目にしたが、かなり抵抗のある読み。「えいしゅづか」または「えいしゅちょう」と読みたい。なお、首塚に実際に首が埋まっているのかについて、【参考】にあげた2本では対立がある。私はある方に傾いているが、首塚であれば当然首が埋まっていると考えるのも短絡であり、存在しない可能性の指摘は尊重したい。
【参考】

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重建石燈碑(東京都上野東照宮)

翻刻
重建石鐙之碑
               廣羣鶴刻字
重建石燈碑記   江都 中村正直
            向山榮篆額
有功徳於世者久而人益思慕焉如徳川氏之祖
東照公其尤者也摂州大坂建國寺舊有公祠明
治之變祠廢一切器具皆被販賣時有有志之相
謀買淂其石燈二十五基既東京忍岡祠廟修造
功竣因建之祠前實明治九年丙子九月也建國
寺舊有百餘基皆係諸侯所獻今幸存其殘餘于
此後人之思慕亦有託而存焉乃作之詞曰
公之聖靈 滿於天下 何用石燈 此區々者
乃人有思 非物莫寫 親賢樂利 視此廟社
 明治九年十二月    木村凝之書

(碑陰)
我日本帝國求古人之有功徳]於世者莫大且偉於
東照公焉苟有愛國敬神之志]者孰弗欽仰思慕焉
況静岡縣諸士族乎此文雖僅々]數百字亦足以益
於世道人心則此石此文謂之]萬年不朽可也
        老友大槻]清崇評
            ]書

從五位本荘宗武/從五位阿部正功/從五位松平忠敬/從五位酒井忠道/從五位阿部正桓/從五位大河内輝聲/從五位松井康載/從五位内藤信美/駿州静岡住 故對馬守庶流安藤廣勤/正五位澀澤榮一/從五位杉浦譲/從五位肥田濱五郎/正六位立嘉度/從六位石川利行/正七位杉山一成
幹事/嘉納希芝/摂州灘住 嘉納次郎右衛門/平岡準藏/土岐重光/坂本柳左/增田充績/渡邊鼎/宮内公美/廣羣鶴/大塚喜太郎/祠官/杉浦勝雅

【年月】明治9年12月
【題字】向山黄村
【撰文】中村敬宇/(碑陰上部)大槻盤渓
【染筆】木村凝之/(碑陰上部)不明
【石工】広群鶴
【所在】上野東照宮池之端参道(東京都台東区上野公園9-88)
【概要】
大阪府大阪市北区天満にあった川崎東照宮別当寺は神護山建国寺)にあった石灯籠100基余りのうち25基を明治9年上野東照宮に移築したことを記念した碑。川崎東照宮明治6年に廃社となった。碑陰の大槻盤渓による文は上半分が剥がれおちているため、墓碑史蹟研究. 第6巻および明治八大家文: 上中下によって補塡した。廃社となった川崎東照宮は、東光院萩の寺(大阪府豊中市南桜塚)に遷座、本地堂瑠璃殿が地蔵堂として現存、本地仏薬師如来も当寺に伝わっている*1*2。また大阪天満宮大阪府大阪市北区天神橋)にも石灯籠、また神輿庫が移築されている*3

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留魂詩碑、建碑記、追慕碑(東京都大田区洗足池)

南洲留魂詩碑

翻刻
朝蒙恩遇夕焚阬人生浮沈
似晦明縦不回光葵向日若
開運意推誠洛陽知己皆為
鬼南嶼俘囚独窃生生死何
疑天付与願留魂魄護
皇城 無 獄中有感南洲

(碑陰)
慶應戊辰之春君率大兵東下人心鼎沸市民荷擔
我憂之寄一書於屯営君容之更下令戒兵士驕激不使
府下百萬生霊陷塗炭是何等襟懐何等信義
君已逝矣偶見往時所書之詩気韻高爽筆墨淋
漓恍如視其平生欽慕之情不能自止刻石以為
紀念碑嗚呼君能知我而知君亦莫若我地
下若有知其将掀髯一笑乎
明治十二年六月 海舟勝安芳  廣羣鶴鐫

【年月】明治12年6月
【作詩・撰文】西郷隆盛/(碑陰)勝海舟
【染筆】西郷隆盛/(碑陰)勝海舟
【石工】広群鶴
【所在】洗足池公園(東京都大田区南千束
【概要】
明治10年西南戦争に没した西郷隆盛を追慕し勝海舟が建てた碑で、西郷の自作自筆の詩を写したもの。詩は沖永良部島の獄中にあったときの作だが、書写は後年か。原蹟は大久保利通旧蔵で当時は勝所蔵の由*1。現存するかは確認できず。豪快な筆跡を彷彿とさせる見事な彫り。碑陰は勝による由来記。西郷に対する思いのあまりの建碑であって、その心情が吐露される。碑は当初葛飾区木下川の薬王院浄光寺にあったが、大正2年に移設された。詩の最後に添えられた「無」は詩中の脱字。
【疑問】

  • 碑陰3行目最後の字「全」に見えるが、しっくりこず
  • 碑陰最後「安芳誌」の「誌」字、写真ピンボケなのもあり、自信なし

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南洲先生建碑記

翻刻
南洲先生建碑記                         八十二叟 梅成書
西郷南洲先生の手筆の詩を石にゑりて東京なる木下川の薬妙院に建むと勝大人の物し
給ふ其工事をおのれと鐵久に任かせられたり明治十二年七月の廿七に彫刻なり
ぬれは谷中の石工群鶴か許より神田佐久間町河岸まて引出舟に積のせて
しはし休らふ折しも俄に大雨降り出神さへ鳴はためきしか暫有て晴わたり
たれはやかて木下河に漕至りぬ廿八日朝またき薬妙院に持はこひぬ此時
神なりひゝきて雨は車軸を流す計降出たり廿九日名残なく晴渡たり暁より
おき出て人々何くれと力をつくして建終りぬ神酒併飯なんともかたの如侍
里人等もむれ集よろこひあへる時しも又空かきくもり俄に黒雲起りつゝ雨は
しのをみたしてをやみなく降り出驚はかりの雷鳴りひゝきいとすさましなむと
いふ計なしかゝりけるほとに雲間より龍の顕れ出たるを人々仰ぎ見て
おそろしあなたふとゝいふまもなく雲をつかみてひらめき昇りにけりされは日比
うちつゝきたる旱に半枯なんとしつる稲草も青みわたつて田毎の水は
あふるゝはかりに漲りたれは鳰とりのかつしか人は是なむ甘雨なんめり天より
黄金をふらし給へるなりと悦あへり抑天地の物に感する必ず応ありたとへは
撞にひて鐘のひゝくか如く其顕るゝかたちを霊といひ奇といふめり其くすしき
わさは神のなせる妙なる理りなれはあへてあやしむにたらす南鬼神感応の奇特といふ也
されはかゝる例古しへより多しとはいへともまのあたり見たる此あらましを後の世にも伝へんとかく記し
おくになむ   明治十六年十一月    玉屋忠次郎建之 行年七十歳

【年月】明治16年11月
【建碑】玉屋忠次郎
【撰文】玉屋忠次郎
【染筆】中井梅成
【石工】広群鶴か
【所在】洗足池公園(東京都大田区南千束
【概要】
勝海舟西郷隆盛の詩碑の制作を玉屋忠次郎と鐵久なる人物にまかせ、明治12年7月石工広群鶴の手によって碑が完成した。その「留魂詩碑」を木下川の薬王院浄光寺に設置する際、日照り続きのところに雨が降り龍が現れるという奇瑞が起きたという話を4年たって記したもの。後述の「追慕碑」には、明治16年に「留魂詩碑」の存在を海舟が明らかにし、七回忌を行い留魂祠を建てたと記される。それにあわせてまたはきっかけとして制作された碑だろうか。かな文が精緻に彫られたいい碑だと思う。
【疑問】

  • 赤字にした「随」と「今」はすこしあやしい。

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勝海舟追慕碑

翻刻
先師海舟勝先生深追慕南洲西郷君建碑刻其詩以為
記念碑在南葛飾郡木下村上木下川浄光寺域内而其
事絶不語于人故世無知之時明治十六年黒田君清隆
吉井君友実税取君篤相携訪先生曰南洲歿後已経七
年朝譴未霽同志相会竊予冤魂如何先生乃始告建碑
之事三君驚喜終共修七回之忌辰於其地其後同志与
寺僧謀側建小祠名曰留魂祠蓋採南洲詩中之語也今
茲官改修荒川碑祠当水路有撤去之命於是与目賀田
君種太郎議移之荏原郡馬込村千束池畔勝家別業大
正二年七月工事竣成矣運搬建設之事一委石工広群
鶴而督之者同門生宇佐穏来彦也
大正二年八月    門下生富田鐵之助謹誌

【年月】大正2年8月
【撰文】富田鐵之助
【染筆】富田鐵之助
【石工】広群鶴か
【所在】洗足池公園(東京都大田区南千束
【概要】
木下川の薬王院浄光寺にあった「留魂詩碑」が荒川改修で水没する地にあたったため、大正2年7月に勝の別業があった洗足池畔に移したことを記した碑。なお既に勝は没している。また、勝が「留魂詩碑」を建てたがそれを人に知らせていなかったことや、黒田清隆らが西郷の七回忌を執り行いたいと相談を受けたときに碑の存在を知らせ、彼らが喜んだこと、更に七回忌には碑の側に祠を建て「留魂祠」と名付けたことも併せて語られている。その祠も移築され近くに現存する。
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